竹内式部寓居址

NA100

たけうちしきぶぐうきょあと
石碑跡石碑跡周辺

 竹内式部(1712~67)は越後国出身の垂加流神道の学者で,この地に家塾を開き,その学問は若い公卿たちの間に尊王思想を目覚めさせた。白川・吉田家を差し置いて公家に神書を講じた等の理由で宝暦9(1759)年京都から追放された(宝暦事件)。さらに山県大弐(1725~67)の明和事件に連坐して八丈島に流される途中三宅島で病没した。この石標は竹内式部宅の跡を示していたが、撤去された。旧状はここ

所在地中京区麩屋町通丸太町西南角
位置座標北緯35度01分02.3秒/東経135度45分56.8秒(世界測地系)
建立年1916年
建立者(京都市教育会)
寸 法高87×幅18×奥行18cm
碑 文
[北]
此南竹内式部寓【以下埋没「居址」カ】
[東]
大正五年五月建之   京都市【以下埋没「教育会」カ】
[南]
寄附者   荒川益【以下埋没「次郎」カ】
調 査2024年10月31日
備 考撤去は、2011年前半と思われる。

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