都城六勇士殉難記命碑 碑文の大意
 慶応3年10月,徳川将軍家が大政奉還を行い,天下の人はみな天皇に政権が戻ったことを喜び,皇室の繁栄を願った。しかし,徳川家臣や佐幕派の者は天皇に反逆をくわだて,世情は混沌としていた。その中で、同年12月9日に王政復古の大号令が出され,徳川家家臣と佐幕派の大名の禁裏警備を解き,勤王派の諸藩に交替させた。まさに一大事が起きる前夜であった。この時,わが薩摩藩都城隊は大坂から移動して伏見の警備にあたった。伏見は京都ののどもと,東海道の要衝で,敵方である伏見奉行所と新選組の屯営があった。このためわが隊は日夜巡邏警戒を怠らなかった。
 12月21日夜,大峰兼武・横山貞明・坂元正備・野邊盛次・安藤利次・内藤利徳の6名が斥候に出て,伏見奉行所から出てきた数十人の武装兵に遭遇した。6名は衝突を避けようとしたが,追跡され銃撃を受けた。6名は本隊に戻り報告し,隊長は薩摩藩の本営に急を告げた。本営では大砲隊を派遣し事情を探り,都城隊側にも錯誤があったことがわかり,東寺へ移動させた。そのため6名は悲憤慷慨し,責を負って切腹した。12月26日のことである。
 もし彼ら6名がこの時切腹することがなかったら,戊辰戦争では大活躍したかもしれない。不幸なことに恨みを呑んで犠牲となったのは,何ともいたましいことである。われら(碑文撰者肥田景之ら建碑有志)は戊辰戦争を戦い,幸いに今までながらえることができた。そのころを回顧すれば感慨を禁じえない。ここに同志の者に募金しここに碑を建て,6名の勇士の霊を慰める次第である。