故蓮月尼紀念碑 碑文の大意
   蓮月尼は俗人である時の名を誠といった。太田垣伴左衛門光古の娘である。光古はもと鳥取藩士で,京都に来て知恩院に仕えた。男子がいなかったので彦根藩士古川重次郎を養子とし,娘誠にめあわせた。重次郎・誠の夫婦にはたくさん子供ができたが,みんな成長せずに亡くなった。夫も子に続いて没した。そこで父娘はそろって髪をおろし墨染の衣を着し出家し,父は西心と,娘の誠は蓮月と名のった。
   蓮月尼は和歌を好み,また武芸も得意であった。そのかたわら自作の歌を彫りつけた陶器を造った。この器は風韻に富むと評判で,人が争って求めた。尼は評判が高くなったことを煩わしく感じ,最後には洛北の神光院に移転した。明治8年12月1日に没した。享年85。西賀茂の小谷に葬った。
   蓮月尼は没する前に辞世を作っていた。その歌をこの碑に刻み墓銘に代える。
      つゆちりも   心に懸かる雲もなし   今日を限りの夕暮の空