蓮月尼碑 碑文の大意 |
蓮月尼は大田垣氏である。その先祖は足利氏の家臣山名持豊の配下,但馬国竹田城主大田垣土佐守古朝である。子孫某は因幡国鳥取に移住し農となった。数世ののち伴左衛門という者が,わけあって妻名和氏をひきつれ京都に移住した。のち東山知恩院に仕えた。この伴左衛門が蓮月尼の父である。 尼は寛政3年京都の三本木で生まれた。名は誠。幼いころから聡明で和歌を得意とした。そのかたわら武術にも通じた。父は男子がなく,尼の母も父に先立って没したので,近江国彦根藩士古川重二郎を婿養子とした。文政6年重二郎が病没。尼と重二郎の間に6人の子が生まれたが,みな幼いうちに亡くなった。さらに同じ彦根藩の風見某の子古敦という者を蓮月尼の養子とし家を継がせた。 家名相続の心配がなくなったあと,父と蓮月尼はともに剃髪し仏門に入り,父は西心,尼は蓮月と号し,養子古敦とは別居した。尼はこの時33歳であった。自作の和歌を彫りつけた陶器を造り,これを売って生活の資とした。世の人はこの陶器を風雅なものと争って買い求めた。これで親を養うことができたのである。 天保3年父が病気で亡くなった。享年78。尼は悲しみにくれて月日を送ったそうである。悲しみのあまり世の煩雑を避け,東山に庵を結び,また廃寺に奇遇した。家財といえば鍋ひとつと身の回りの品を入れた袋だけであったが,尼は泰然自若としたものであった。最後には西賀茂神光院に住み晩年を送った。明治8年12月10日に病で没した。享年85。西賀茂村の西の隅に葬った。 蓮月尼の人がらは謙遜で名声や利益を求めることはまったくなかった。聡明ではあったがそれを隠して暮らしていた。いつも貧民を救うことを楽しみとして,遺産など何もなかった。世の人は陰徳尼と呼んだが,これも理由のあることである。 |