新織繻子碑 碑文の大意 |
ただいま外国との間で輸出入が盛んに行われている。工業を興し物を作り国益に尽くすためには,自分の国にないものだけを他の国から輸入し,他国へは日本の製品を輸出するようにしなければならない。そうすれば国が豊かになることはまちがいない。永井喜七はこういった考えを抱いていた。 喜七は京都西陣の人である。代々繻子を織ることを家業とした。繻子は京都特産の筆頭であり,外国でも求められる品である。しかしその製造技術は人力を主とし,労力を費やすので価格も高かった。外国ではこのことに着眼し,蒸気機関を使い,品質が良く価格が低い織物を製造し,わが国に輸出したので,外国品を購入するものが次第に多くなった。 喜七はこのことを憂え,事態を改善しようと東京へ行き,内外の商工業の現況を研究した。京都へ帰りいろいろ試みた結果,独自に機器を考案した。しかし資金が足りず蒸気機関を使うことができなかった。そこで渡辺伊之助という人物に相談した。伊之助は西陣の仲買商で,喜七の志に感じ援助したので蒸気機関を使うことができた。この機械によって作られた繻子は,品質といい価格といい外国産に劣らない製品だった。西陣の織物業者はみな喜七にならい,毎年百万反を織り出し,国内の需要を満たすだけでなく,外国へ輸出し利益を生んだ。この功績により西陣の繻子は内国博覧会などで褒賞の名誉に輝いたのである。 永井喜七は明治21年11月26日に病死した。まだ40歳の働きざかりで惜しまれた。思うにわが西陣織が国の内外で評判を得て久しい。従事する商工業者もまた数千人にのぼる。これらの人々が喜七の志を体し協力し,国益を目標にしたのであるから成功したのは当然である。ここに有志が相談し,石碑を建立し喜七の功績を顕彰する次第である。わたし(京都府知事北垣国道)は喜七の功績をよろこばしく思い,この志を継承する者が出ることを願うので,碑文の執筆を依頼により引き受け,概略を述べるものである。(以下銘略) |