参議小野公塋域碑 碑文の大意
 慶応四(1868)年の夏,わたし(筆者金田清風)は金沢藩家老の横山様に従い京都へ出張した。ある日横山様がわたしに語ったことは「わが家は小野篁公の子孫である。臣下に下った者のうち,子孫が現存している家は数少ないが,幸いにわが家は前田家という大大名に仕え今日に至った。ひとえに先祖のおかげである。しかし篁公は遠い先祖であり,その葬られた土地が判らないのが残念である。京都の西の郊外に墓があるとは聞いたので,本家の子である隆淑に捜しに行ってもらったところ,紫野にあることをつきとめた。年来の願いがこれで果たせた。そこで記念する石碑を建てたいが,あなたにその文を作ることをお願いしたい」と言われた。わたしは承諾したが,果たさないまま金沢に帰ることになった。
 翌年,石碑を建てる準備が整い,いろいろと調べてみると,墓は野原の中に久しく放置され,ろくに保存もされていない。ここだということを示すような石碑もないありさまである。ただ寛政年中(1789〜1801)に秦なにがしという人が残念に思い「小野相公墳」と記した石標を建て,墓への通路を作り,始めてそれと判るようになった。
 墓は塚の西北の一角がなくなっていて,あたかも二つの塚があるように見える。そこで近くの人々は一方が小野篁公の墓で,一方は紫式部の墓だと言うようになった。そもそも篁公と式部は時代も違えば,たがいに関係のない人物である。こういう説はいっこうに理屈に合わない。
 ここに石の柵を新たに作り,きちんとした通路を作り,お参りする人にもはっきり判るように墓地を補修した。これ以降は墓が荒らされるようなことはないであろう。しかし古いありさまを改めることはしていない。ただ秦氏の建てた石標を墓所への入口へ移しただけである。横山様が墓所を補修できたのも先祖のおかげだが,秦氏の功績も忘れてはいけない。秦氏が何者かは明らかではないが,さだめて徳のある人格者であろう。
 これ以降,秦氏のような人々がかわるがわる墓の面倒を見ていけば,墓は将来にわたり保存されていくであろう。横山様が碑文をわたしに依頼したのも,この志があるからであり,わたしが未熟でありながら,あえて引き受けたのもこのゆえである。横山様は名は政和,篁公の四十四世の子孫,本家の隆淑は四十六世の子孫である。