会津藩洋学所跡地KA175 |
あいづはんようがくしょあとち |
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会津藩士であった山本覚馬(1828~1892)は、京都守護職とされた藩主松平容保にしたがって、元治元年(1864)2月に上洛した。覚馬は、在洛藩士のためにこの地を借り、洋学所を設けた。英学は横山謙助(仙台藩士)、蘭学は栗原唯一(蘭方医)が教授し、会津藩士だけでなく他藩の人びとも多く学んだという。 その後、覚馬は鳥羽伏見の戦いで捕えられ、入牢する。しかし入牢中にその才を認められ、明治2年(1869)に京都府勧業御用掛に抜擢されると、槇村正直とともに京都の近代化に多大な貢献をした。 |
所在地 | 上京区西洞院通上長者町上る西側(長徳寺前) |
位置座標 | 北緯35度1分26.7秒/東経135度45分18.1秒(世界測地系) |
建立年 | 平成24年 |
建立者 | 長徳寺 |
寸 法 | 高85.5×幅15.5×奥行15.0cm |
碑 文 | |
[西] | |
会津藩洋学所跡地 | |
[南] | |
平成二十四年九月建立 | |
[解説板] | |
会津藩洋学所跡 | |
元治元年(一八六四年)蛤御門の | |
変がおこったこの年、会津藩士、 | |
山本覚馬(同志社創立者新島 | |
襄夫人、八重の実兄)は、長徳 | |
寺内に洋学所を開設し、京都に | |
洋学の新風を起こす。 | |
明治十二年(一八七九年)覚馬 | |
は、初代京都府議会議長に就 | |
任し、京都の発展に貢献した。 | |
長徳寺 | |
調 査 | 2023年3月19日 |
備 考 | 建立者は解説板による。 |