三条実美頌徳碑 碑文の大意
 明治二十四年二月十八日,内大臣正一位大勲位三条実美公がなくなった。八日後に国葬を賜い,武蔵国豊島郡豊島岡に葬った。わたくし(撰者北垣国道)は公の知遇を得て久しいが,京都府知事に在任中で参列できなかった。そのため有志と協力し京都の霊山で祭祀をおこなった。参会する者は万をもって数えたが,みな公の徳を顕彰しなければならないと言った。そこで碑を公の生誕の地である梨木神社に立て,以下のように銘を刻むものである。
 【以下は四字一句の銘】
 天降偉人  天は偉人をこの地に遣わし
 以佑中興  明治維新の中興を助けた
 克肖乃父  父(三条実万)によく似て
 志気恢弘  大きな志望を持っていた
 時会否運  当時不幸なことに
 辺境不寧  国際問題が起きた
 風魚有警  外国船到来の知らせが届き
 民人戦兢  ひとびとは恐れおののいた
 帝曰噫*  帝(孝明天皇)がおっしゃるには
 統在朕躬  この国は朕が治める国である
 寸壌尺地  ほんの少しでも
 不#虜戎  外国人に汚されてはならぬと
 公也奮励  三条公は意気高く
 伝詔幕府  幕府に天皇の命を伝えた
 幕府偸安  幕府はその日暮らしに馴れきって
 心懾気沮  事態を恐れるばかりであった
 帝誓祖宗  天皇は祖先に誓い
 欲張我武  武力で攘夷を行うつもりであった
 公賛神算  公はこの計画に賛同し
 肱股心膂  天皇からも信頼されていた
 廟議仲変  ところが朝廷の勢力が逆転し
 公遷西州  公は西国へ退去した(七卿落ち)
 六経寒暑  六年を経て
 身如累囚  その身は囚人同様だった
 天運循環  しかし天の命運が一巡し
 其命維新  明治維新が実現した
 公帰京師  公が京都へ帰ったのは
 戊辰之春  戊辰の春のことである
 先帝既崩  その時は先帝(孝明天皇)は既に崩御
 今上紀元  今上(明治天皇)の代であった
 公能竭心  公は力をつくし
 克寛克仁  寛仁大度の補佐につとめた
 出鎮東武  新政府は江戸を鎮定し
 皇威発揚  皇威はますます輝いた
 東北平定  そして東北諸藩の抵抗が平定され
 干戈爰蔵  ここに戦塵はおさまった
 既戡禍乱  戊辰戦争に勝ち
 與民更始  新しい時代が始まった
 海陸軍備  海軍陸軍が整備され
 文武済美  政治制度が確立した
 公執大政  公は政治のリーダーシップを
 二十餘年  二十年以上にわたってとり
 功継鎌足  功績は藤原鎌足を継承し
 徳比道真  その人徳は菅原道真に匹敵する
 輔翼聖徳  天皇を補佐すること
 如師如親  師と親を兼ねた
 万世模範  万世の模範であり
 千秋名臣  千秋の名臣である
 天命靡当  天命とはいえ
 公薨何速  こんな早くに亡くなるとは
 聖上宸悼  天皇は追悼のあまり
 廃朝三日  三日にわたり政務を廃された
 孰曰公亡  公が亡くなったとは信じられない
 公徳不滅  公の人徳は不滅である
 嗚呼公徳  公の徳を回顧すれば
 山高海濶  山のように高く海のように広い