豊臣秀勝邸跡伝承地・蘭林坊跡

KA162

とよとみひでかつていあとでんしょうち・らんりんぼうあと
石碑(0029138)石碑周辺(0029139)

 (解説は碑に添えられた解説板にゆずる)

所在地上京区土屋町通出水上る東側
位置座標北緯35度01分18.3秒/東経135度44分38.3秒(世界測地系)
建立年2011年
建立者特定非営利活動法人京都歴史地理同考会
寸 法高105×幅18×奥行18cm
碑   文
[西]
聚楽城武家地   豊臣秀勝邸跡伝承地
[南]
平安宮内裏蘭林坊跡
[東]
二〇一一年九月
   特定非営利活動法人   京都歴史地理同考会建之
                                 寄贈者   仲田秀夫・廸・裕行
[解説板]
      聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地
   このあたり一帯は、古代において、平安京大内裏(平安宮)のうち、天皇の住まいだった内裏跡にあたります。」
   なかでも当地は、陽明文庫蔵「内裏図」により、蘭林坊跡と考えられています。蘭林坊とは、天皇一代の大イ」
ベント大嘗祭などに使用される品物の保管場所です。
   一九七四年(昭和四九)、平安博物館の行った発掘調査によって、蘭林坊の東南隅の築地に関わる溝のような」
痕跡などがみつかっています。
   その後、火災などにより内裏は別の場所に営まれ、この地は荒野となりました。内裏跡ですので「内野」とよ」
ばれました。天皇への遠慮(タブー)があったようで、ながくここに住居などが建てられることはありませんでした。」
   この地の再利用に着手したのは、豊臣秀吉でした。ながい戦国時代をおわらせ、天下統一の実現が求められて」
いました。秀吉は関白となり、天皇の伝統的権威をかりての政権構想をもちます。そのため本拠は、大坂ではな」
く京都に定まりました。それが内野に建設された城郭、聚楽城です。
   聚楽城はながく正確な位置が不明でした。が、森島康雄さんや百瀬正恒さん、馬瀬智光さんたちの考古学的」
研究により、全貌が明らかになりつつあります。
   聚楽城の周囲には全国の大名の屋敷がいとなまれました。安芸広島浅野家旧蔵の「諸国古城之図」の聚楽城図」
には具体的な人物の名前が記されています。馬瀬智光さんの復原図によって推定すれば、当地には秀吉の姉の子」
(甥)で、養子でもあった豊臣秀勝(丹波少将)の邸宅があったといえそうです。
   豊臣秀勝の妻は、淀殿(浅井茶々)の末妹・江です。ふたりは天正一三年一〇月一八日(一五八五年一二月九」
日)結婚し(「兼見卿記」同年同月二〇日条)娘をさずかりました(完子。誕生年不明)。この一家の住居こ」
そ当地であった可能性があります。
   天正二〇年九月九日(文禄元年、一五九二年一〇月一四日)、不幸にも秀勝は、出兵中に朝鮮で急死します。」
その後、江は徳川秀忠と再婚しますが、完子は同行しませんでした。豊臣家の大事な娘ですので、おそらく秀吉」
が禁じたと思われます。
   秀吉の死後も生母(江)と暮らすことはなく、淀殿の猶子として大坂城で養育され、慶長九年六月三日(一六〇四」
年六月二九日)、豊臣家から五摂家の九条忠栄(幸家、のち関白)に嫁ぎます(「慶長日件録」)。」
   完子は多く子をうみ、その子孫は公家社会の維持に寄与しました。近代に入り子孫のひとり九条節子は、嘉仁」
親王(のち大正天皇)に嫁ぎ、裕仁親王(のち昭和天皇)を生みます。豊臣家の血統は、完子を通じて現在の皇室」
にも及んでいるようです。
   当地は現代にも通ずる日本史の重要な舞台地のひとつといえましょう。ゆえに標石を建て顕彰いたすものです。」
         二〇一一年九月
                                                      歴史地理史学者
                                                                     中村武生
調 査2012年7月4日
備 考解説板は碑の東隣に設けられ縦書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト/解説板には聚楽第図屏風(三井文庫蔵)・諸国古城之図(広島市立中央図書館蔵)・聚楽第復原図(馬瀬智光案)の3面の図が収められている

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