石牛縁起碑 碑文の大意
 但馬国養父郡大屋谷は温石を産し,販路は全国に及ぶ。ほとんどは小さな石で,巨大なものはごくまれにしか出ない。たまたま一辺が一丈にも及ぶ巨石を産し,土地の人はみな奇異なことに思った。しかしこれを切り出そうしようとする者はみな中途であきらめた。地元の有力者は「これだけの巨石をむざむざと谷底に放置して無駄にするのは残念だ。細工が困難だといっても協力して力を尽くしたら何とかできるであろう」と協議した。
 明治13年5月,産地の大屋谷に工事用の小屋を建て,日夜作業を続け,翌年1月に切り出しが完成した。関係者はたいへん喜び,北野天満宮にこの巨石を奉納しようということになった。そこで巨石から長さ7尺の仔牛の像を彫り出した(牛は天満天神のお使い)。完成品は真にせまり光かがやき,模範とすべき見事なできばえだった。そこでこの牛を大阪へ輸送した。
 ちょうどこの時,京都の商人某は石牛を北野天満宮へ奉納しようと思っていた。大阪へ運ばれた石牛のことを聞きつけ,これぞ天のたまものと,大金を持って大阪へかけつけ,産地の但馬の人たちに申し入れた。但馬人はこれを聞いて,自分たちの宿志とぴったり符合した,これも天満天神のおひきあわせとと喜び,たちどころに合意ができた。そこで石牛を京都へ運び北野社に献納された次第である。石牛が北野天満宮に安置された経緯を書くようにわたし(碑文の筆者青地鶏堂)に依頼があった。そこでこの経緯が偶然ではないこと(神意が働いていたこと)を書いた。石が非常に美しく,細工が精巧であることは見ただけでわかる。