立入宗継旌忠碑 碑文の大意
 永禄元亀年間ごろの皇室のおとろえは言うに忍びないものがある。禁裏御所の建物や塀はくずれおちたままで,御所の内外では子供が遊び,宮仕えの人が物を売って生活をしていたほどである。皇室に産物を献上する地域は武士に占領され,天皇の日常生活は(俗人と同じように)商人に頼っていた。御所の周囲は戦乱による流血の場となっていたのである。
 こんな時勢に公家は諸国の大名を頼って京都から逃げだす者が多く,皇室のために力を尽くす者は皆無であった。立入宗継は一介の皇室の倉庫番であったが,自分の命にかえても天皇に忠節をささげた人物である。この人は織田信長の武将としての令名を聞き,自分の舅である礒貝久次と相談し,中納言藤原惟房を介して正親町天皇の綸旨を得て,熱田神宮へのお使いと称し尾張国の信長のもとへ綸旨を届けた。この綸旨は信長に戦乱を収めることを命じたものである。時に永禄5年10月28日のことであった。
 信長は綸旨に感激し,上京する時期を宗継に約束し正親町天皇に報告させた。そして約束どおり皇室の威儀を回復し,禁裏御所を修造し,皇室への献上を増加し,御所の守護を厳重にさせ,公家を京都へ帰還させた。天皇の地位はここに安泰となったのである。信長が入京したとき,惟房と宗継は粟田口まで迎えに行った。信長は着用している野戦服(?)をさして「これは以前に天皇から賜ったものである。着用し謹んで天皇の恩を拝するものである」と言った。この服は宗継が尾張へ使者に立ったとき持っていった布で織ったものだという。信長にこのように戦乱平定・皇室再興の使命感を持たせたのは,もちろん正親町天皇の威徳のためであるが,宗継の忠誠の力があってこそ実現したわけである。
 それにもかかわらず,信長のためには建勲神社が船岡山に創建されているが,宗継にはその墓所を示す碑すら建てられていない。墓所はごつごつした石があるだけで,荒廃にゆだねられていて残念なことである。近ごろ僧祐鳳が同志と碑を建て,宗継の誠忠を顕彰しようと計画し,その碑文をわたし(碑文の筆者谷鉄臣)に頼んできた。
 宗継は従五位下左京亮の身分で,元和8年9月26日に亡くなった。享年95。清浄華院の先祖代々の墓所に葬られた。戒名は誓岸隆佐居士という。文政6年2月に従四位下を贈られた。明治24年1月,特に皇室から金五百円を子孫に賜った。明治30年12月,碑を建てることが天皇のお耳に達し,金百円を賜った。明治31年4月,勅をもって従二位を贈られた。これらの恩典はみなその皇室に対する忠節をたたえるものである。
 むかしから忠臣義士の埋もれているものも,皇室の恩典により世にその事績が知られている。それであれば皇室に忠誠をつくし,信長のような英雄の手を使ってでも天下に皇室の尊きことを明らかにした宗継のような者の功績があきらかにならないのは道理に合っていない。これこそ皇室が志士に追贈してその功績を明らかにするゆえんである。