直江兼続・上杉景勝屋敷跡

KA151

なおえかねつぐ・うえすぎかげかつやしきあと
石碑(0028082)石碑周辺(0028083)

 (解説は本碑の東に隣接する副碑碑文にゆずる)

所在地上京区椹木町通葭屋町東入
位置座標北緯35度01分07.4秒/東経135度45分04.4秒(世界測地系)
建立年2009年
建立者NPO法人京都歴史地理同考会
寸 法高110×幅18×奥行18cm
碑 文
[北]
此南   聚楽城   武家地   直江兼続屋敷推定地
[西]
此北   聚楽城   武家地   上杉景勝屋敷推定地
[東]
平安京左京二条二坊八町   春宮坊   東宮町跡
[南]
二〇〇九年五月
   特定非営利活動法人京都地理歴史同考会   建之
                     寄贈者   山科区中在寺町   近藤光成
[副碑北]
   当地は平安京の表記では、左京二条二坊八町にあたる。『拾芥抄』によれば、皇太子の事務」
を行う春宮坊の役人の住む町(東宮町)だった。平安後期の承保4年(1077)9月、春宮権亮」
源師忠の母が住んでいることが分かっている(『水左記』)。
   応仁の乱の戦禍によって首都京都は一旦壊滅したが、天下統一を進める豊臣秀吉によって」
近世都市として甦った。その中心は、居城聚楽城と武家地(大名屋敷地区)である。当地」
付近もその範囲に含まれ、北国大名の上杉景勝、およびその重臣直江兼続の屋敷が営まれた」
と思われる。
   直江兼続は、秀吉からみれば陪臣にあたるが、上杉景勝と同様に豊臣姓を賜るなど優遇さ」
れた。「上杉年譜」によれば、天正17年(1589)、上洛した出羽国(現山形県)の大名、大宝寺」
千勝丸(のち義勝)が直江兼続屋敷を旅館に使用したとあり、洛中に同屋敷は確実に存在した。」
   その位置は不明であるが、江戸中期の宝暦12年(1762)刊行の『京町鑑』は、当地の南隣」
の「直家町」を直江屋敷跡と伝承する。江戸初期に描かれた「京都図屏風」をみれば、当町」
はもと「なおい町」だった。兼続屋敷の重要参考地といえる。
   上杉景勝屋敷は天正16年(1588)に得た一条戻橋西入ルの地が知られるが、「輝元公上洛」
日記」によると、同じ頃、聚楽城の東南方向の毛利輝元屋敷の右側に宇喜多秀家屋敷があり、」
左側には上杉屋敷もあった。これは一条戻橋屋敷ではありえない。
   現「浮田町」・「森中町」をそれぞれ宇喜多・毛利両屋敷の遺称地と推定できるため、その」
東隣地で当地北向かいの「長尾町」が、上杉屋敷跡(長尾は旧名字)に比定される。すると先に」
ふれた「直家町」(兼続屋敷推定地)と「長尾町」が近接することに気づかれる。景勝・兼続の」
深い関係を鑑みれば十分ありえることだろう。
                                                               歴史地理史学者   中村武生
調 査2009年6月26日
備 考副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト

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