所在地 | 上京区椹木町通葭屋町東入 |
位置座標 | 北緯35度01分07.4秒/東経135度45分04.4秒(世界測地系) |
建立年 | 2009年 |
建立者 | NPO法人京都歴史地理同考会 |
寸 法 | 高110×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
| [北] |
| 此南 聚楽城 武家地 直江兼続屋敷推定地 |
| [西] |
| 此北 聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷推定地 |
| [東] |
| 平安京左京二条二坊八町 春宮坊 東宮町跡 |
| [南] |
| 二〇〇九年五月 |
| 特定非営利活動法人京都地理歴史同考会 建之 |
| 寄贈者 山科区中在寺町 近藤光成 |
| [副碑北] |
| 当地は平安京の表記では、左京二条二坊八町にあたる。『拾芥抄』によれば、皇太子の事務」 |
| を行う春宮坊の役人の住む町(東宮町)だった。平安後期の承保4年(1077)9月、春宮権亮」 |
| 源師忠の母が住んでいることが分かっている(『水左記』)。 |
| 応仁の乱の戦禍によって首都京都は一旦壊滅したが、天下統一を進める豊臣秀吉によって」 |
| 近世都市として甦った。その中心は、居城聚楽城と武家地(大名屋敷地区)である。当地」 |
| 付近もその範囲に含まれ、北国大名の上杉景勝、およびその重臣直江兼続の屋敷が営まれた」 |
| と思われる。 |
| 直江兼続は、秀吉からみれば陪臣にあたるが、上杉景勝と同様に豊臣姓を賜るなど優遇さ」 |
| れた。「上杉年譜」によれば、天正17年(1589)、上洛した出羽国(現山形県)の大名、大宝寺」 |
| 千勝丸(のち義勝)が直江兼続屋敷を旅館に使用したとあり、洛中に同屋敷は確実に存在した。」 |
| その位置は不明であるが、江戸中期の宝暦12年(1762)刊行の『京町鑑』は、当地の南隣」 |
| の「直家町」を直江屋敷跡と伝承する。江戸初期に描かれた「京都図屏風」をみれば、当町」 |
| はもと「なおい町」だった。兼続屋敷の重要参考地といえる。 |
| 上杉景勝屋敷は天正16年(1588)に得た一条戻橋西入ルの地が知られるが、「輝元公上洛」 |
| 日記」によると、同じ頃、聚楽城の東南方向の毛利輝元屋敷の右側に宇喜多秀家屋敷があり、」 |
| 左側には上杉屋敷もあった。これは一条戻橋屋敷ではありえない。 |
| 現「浮田町」・「森中町」をそれぞれ宇喜多・毛利両屋敷の遺称地と推定できるため、その」 |
| 東隣地で当地北向かいの「長尾町」が、上杉屋敷跡(長尾は旧名字)に比定される。すると先に」 |
| ふれた「直家町」(兼続屋敷推定地)と「長尾町」が近接することに気づかれる。景勝・兼続の」 |
| 深い関係を鑑みれば十分ありえることだろう。 |
| 歴史地理史学者 中村武生 |
調 査 | 2009年6月26日 |
備 考 | 副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト |