上杉景勝屋敷跡

KA150

うえすぎかげかつやしきあと
石碑(0028080)石碑周辺(0028081)

 (解説は本碑背後の壁面パネルにゆずる)

所在地上京区黒門通一条上る西側
位置座標北緯35度01分36.3秒/東経135度44分59.1秒(世界測地系)
建立年2009年
建立者NPO法人京都歴史地理同考会
寸 法高115×幅18×奥行18cm
碑   文
[東]
聚楽城   武家地   上杉景勝屋敷跡
[北]
此付近   応仁の乱ゆかりの地   細川勝久屋敷跡
[南]
二〇〇九年四月吉日
特定非営利活動法人   京都歴史地理同考会   建之
      弾正町   寄贈者   村田眞一
[壁面パネル]
   当地は平安京一条大路のすぐ北にあたる。つまり平安遷都当初は都市域で」
はなかった。が,西隣地(一条大宮上ル西側一帯)に平安中期の能書家,藤原」
行成が世尊寺を創建したと推定されており,京外ではあるが当地も早くから
開発されたと思われる。
   室町時代には,備中国(現岡山県)に勢力をもつ細川勝久の屋敷が営ま
れた。応仁の乱では一族の細川勝元に属したため,応仁元年(1467)5月,当地」
も洛中での最初の合戦にまきこまれた。
   応仁の乱から約120年後,天下一統を進める豊臣秀吉は,京都に本拠を
定めた。征夷大将軍ではなく,関白として,天皇のそばでの政権維持を考え
たためである。
   そのため洛中に本格的な城郭を建設した。現在の一条大宮の西南一帯に」
位置した聚楽城である。注目すべきは,全国の大名が,秀吉の命により聚
楽城のそばに大名屋敷を営んだことである。すなわち京都は単なる豊臣家
の中心地ではなく,「武家国家の首都」になったのである。
   当地にはその際,北国の大名,上杉(弾正少弼)景勝の屋敷がつくら
れた。重臣直江兼続も出入りしたことは間違いなかろう。
   当地が上杉屋敷跡であることは,信用できる同時代史料により,一条戻橋」
ちかくに存在したこと,そのすぐ西側に大宮通りが通っていたと分かるほか,
少なくとも江戸初期から当地の地名が,上杉弾正少弼に通ずる「弾正町」
であるため確実と考える。
                                                      歴史地理史学者   中村武生
備 考碑のうしろの壁面に金属製解説パネルが設置されている/パネルの文章は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト/現地等で配布している京都歴史地理同考会のちらしによれば「上杉家譜」「政宗記」を位置比定の典拠としている

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