所在地 | 上京区一条通堀川東入南側 |
位置座標 | 北緯35度01分34.3秒/東経135度45分09.0秒(世界測地系) |
建立年 | 2008年 |
建立者 | 京都歴史地理同考会 |
寸 法 | 高110×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
| [北] |
| 近衛堀川屋敷跡 |
| 此向かい |
| 小松帯刀寓居参考地 |
| [東] |
| 藤原道綱母子 |
| 一条邸跡 |
| 源頼光 |
| [西] |
| 此付近応仁の乱洛中最初合戦地 |
| [南] |
| 二〇〇八年七月 |
| 京都歴史地理同考会建之 |
| 宮本某 寄贈 |
| [副碑南] |
| 当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたる。「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が」 |
| 住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。」 |
| 付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもある。応仁元年(1467)5月」 |
| 26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め」 |
| 入り、一条大宮で戦った。そのため、当時この北方にあった革堂(行願寺)・百万遍」 |
| (知恩寺)・誓願寺などが焼亡した。以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくま」 |
| に被災し、古代・中世都市平安京は壊滅する。」 |
| 江戸時代には、筑前福岡黒田家邸となった。同家御用達商人だった古高俊太郎」 |
| (桝屋喜右衛門)も出入りしたと推定される。元治元年(1864)6月5日、古高の」 |
| 政治活動をキャッチした新選組は彼を逮捕、池田屋事件の導火線となった。」 |
| なお当地の向かいは、五摂家筆頭の近衛家の堀川邸で、内部に「御花畑」があっ」 |
| た。薩摩島津家の家老小松帯刀は「御花畑」のある近衛邸を寓居としたとされるた」 |
| め、当邸は有力候補地といえる。慶応2年(1866)1月、小松寓居には長州毛利家」 |
| の桂小五郎(木戸孝允)が入り、その地で薩長同盟が締結された可能性がある。」 |
| 当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であった。」 |
| 歴史地理研究者 中村武生 |
調 査 | 2008年7月26日 |
備 考 | 副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト/本碑は2015年8月1日建立者により撤去された
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