小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡他

KA144

こまつたてわきぐうきょさんこうち・このえけほりかわていあとほか
石碑(0027952)石碑周辺(0027953)

 (解説は本碑の西に隣接する副碑碑文にゆずる)

所在地上京区一条通堀川東入南側
位置座標北緯35度01分34.3秒/東経135度45分09.0秒(世界測地系)
建立年2008年
建立者京都歴史地理同考会
寸 法高110×幅18×奥行18cm
碑   文
[北]
                     近衛堀川屋敷跡
此向かい
                     小松帯刀寓居参考地
[東]
藤原道綱母子
                              一条邸跡
源頼光
[西]
此付近応仁の乱洛中最初合戦地
[南]
二〇〇八年七月
         京都歴史地理同考会建之
                  宮本某   寄贈
[副碑南]
   当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたる。「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が」
住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされる。」
   付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地でもある。応仁元年(1467)5月」
26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め」
入り、一条大宮で戦った。そのため、当時この北方にあった革堂(行願寺)・百万遍」
(知恩寺)・誓願寺などが焼亡した。以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくま」
に被災し、古代・中世都市平安京は壊滅する。」
   江戸時代には、筑前福岡黒田家邸となった。同家御用達商人だった古高俊太郎」
(桝屋喜右衛門)も出入りしたと推定される。元治元年(1864)6月5日、古高の」
政治活動をキャッチした新選組は彼を逮捕、池田屋事件の導火線となった。」
   なお当地の向かいは、五摂家筆頭の近衛家の堀川邸で、内部に「御花畑」があっ」
た。薩摩島津家の家老小松帯刀は「御花畑」のある近衛邸を寓居としたとされるた」
め、当邸は有力候補地といえる。慶応2年(1866)1月、小松寓居には長州毛利家」
の桂小五郎(木戸孝允)が入り、その地で薩長同盟が締結された可能性がある。」
   当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であった。」
                                                            歴史地理研究者   中村武生
調 査2008年7月26日
備 考副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト本碑は2015年8月1日建立者により撤去された

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