西陣碑KA085 |
にしじんひ |
西陣の地名は,応仁の乱の際,西軍方の陣が敷かれたことに由来する。平安時代にはこの地に織部司がおかれ,中世にはその流れを汲む大舎人座が機業に携わっていた。応仁の乱で織工は一時疎開していたが,乱後再び復興した。近世以降,西陣織の生産地として,日本を代表する高級織物業の中心地となり現在に至る。東は堀川通,西は七本松通,北は今宮神社御旅所,南は一条通または中立売通で囲む一帯を西陣と呼ぶ。この石標は西陣の由来を記すものである。 |
所在地 | 上京区今出川通大宮東入北側(京都市考古資料館前) |
位置座標 | 北緯35度01分46.5秒/東経135度44分59.1秒(世界測地系) |
建立年 | 1928年 |
建立者 | 三宅安兵衛遺志 |
寸 法 | 高280×幅145×奥行37cm |
碑 文 | |
[南] | |
西陣【題額】 | |
京都帝国大学総長医学博士荒木寅三郎閣下篆額 | |
古来朝廷ニハ大蔵省ニ織部司アリテ綾錦ヲ織リ及 | |
ビ染物ノ事ヲ掌レリ後其業民間ニ移リ織工等大舎 | |
人座ヲ組織シテ高機ヲ構ヘ大舎人織手師ト呼バル | |
応仁ノ乱ニ東西ノ両軍京都ニ割拠シテ攻戦十一年 | |
ニ及ビ其間西軍ハ五辻通大宮東ナル山名宗全ノ邸 | |
ヲ中心トシテ堀川以西一条以北ノ辺ニ駐屯セシヨ | |
リ此一画ヲ呼ンデ西陣トイフ是時ニ当リテ戦乱相 | |
次ギ京都ノ織工多ク難ヲ避ケテ和泉堺ノ海浜ニ居 | |
住セリ堺ハ乱中幕府ノ遣明船発着ノ港トナリ貿易 | |
殷賑ヲ極メタリ乱平ギシ後京都ノ織工帰リテ西陣 | |
ノ地白雲村ニ居リ明ノ織法ヲ伝ヘテ其面目ヲ新メ | |
タリ天文中大舎人座中三十一人アリシガ元亀二年 | |
其六人ヲ内蔵寮織物司ニ補セラレ御寮織物司ト号 | |
ス天正中豊臣秀吉白雲ノ水質不良ナルヲ以テ新在 | |
家ニ移セリトイフ此前後ヨリ印度支那及ビ西洋諸 | |
国ノ織物ヲ伝ヘテ其業益精シク機業ノ隆盛ヲ来ス | |
ト共ニ織工ノ家西陣ノ故地ニ櫛比シ西陣織物ノ盛 | |
名宇内ニ喧伝セラル丶ニ至レリ今茲ニ西陣発源ノ | |
地ヲ卜シテ碑ヲ建テ其来歴ヲ明ラカニス | |
昭和三年十一月 文学博士三浦周行撰 山田得多書 | |
[北] | |
昭和三年秋 稟京都三宅安兵衛遺志建之 | |
調 査 | 2002年2月7日 |
備 考 | 複製碑(KA064)がある |