立命館草創の地

KA083

りつめいかんそうそうのち
石碑(0009930)石碑周辺(0007134)

 西園寺公望(1849〜1940)の秘書官中川小十郎(1866〜1944)は,明治33(1900)年5月,法律・政治の二科を置く,私立京都法政学校(立命館大学の前身)を開校した。料亭清輝楼を仮校舎として講義が行われ,翌年12月,広小路河原町の新校舎に移転した。この石標はその仮校舎跡を示すものである。なお清輝楼は,桂小五郎(木戸孝允)と幾松(のちの木戸夫人)の逸話で知られる吉田屋のあとを受け継いだ料亭といわれ,その後平成8(1997)年まで大和屋旅館として存続した。

所在地上京区東三本木通丸太町上る東側
位置座標北緯35度01分07.9秒/東経135度46分13.2秒(世界測地系)
建立年2000年
建立者学校法人立命館
寸 法高130×幅100×奥行42cm
碑 文
[西]
   (晴輝楼写真)
立命館草創の地
   京都法政学校設立
         1900年(明治33年)5月19日
[副碑]
   立命館大学の前身京都法政学校
は、一九〇〇年(明治三三年)五
月一九日中川小十郎によってこの
地に創立された。
   ここにあった当時の有名な旗亭
清輝楼を仮校舎として、六月五日
から夜間授業を開始し、翌年の移
転以後は約八〇年間にわたってい
わゆる広小路学舎(現府立医大の
西構内)が中心になったが、鴨川
畔東三本木のこの場所はまさに立
命館草創の地といってよい。
   中川小十郎は、「世界の中の一
員」としての日本を常に意識して
いた近代日本の代表的政治家西園
寺公望の最初の文部大臣在任中、
特命による唯一の大学書記官とし
て京都帝国大学(現京都大学)創
立に尽瘁の傍ら、京都の地でのも
うひとつの「自由と清新」の学府
づくりをめざしたのであった。
   京都法政学校はその後、西園寺
がすでに一八六九年に御所の邸内
に開いた家塾“立命館”の名称を
継承して、立命館大学(旧制)へ
と発展した。「平和と民主主義」
の教学理念を加えた戦後の立命館
のさらに大きな展開については多
言を要しない。
   なお清輝楼は、明治維新の中心
的な担い手のひとりの桂小五郎(木
戸孝允)と幾松(のちの木戸夫人
)の逸話でよく知られる吉田屋の
あとをうけ継いだものといわれ、
その後の変遷を経て一九九七年ま
で大和屋旅館として存続した。
   二〇〇〇年三月二十三日
               学校法人   立命館
                     理事長   川本八郎
調 査2002年2月21日
備 考

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