鵺池碑 碑文の大意 |
わたし(筆者松崎正祐)の主君であるは丹波篠山藩主松平紀伊守が京都所司代に任じられ京都に赴任していたとき,家臣の太田毎資もまた主君に従い京都に滞在していた。毎資の官舎の庭に池があり,鵺池と呼ばれていた。源頼政卿がかつて鵺を射た矢じりを洗った地だと伝えられていた。 実は毎資は太田道灌の七世の孫で,頼政卿の末裔である。だからその地に居をかまえた事をたいへん喜んだ。それだけではなく,この池の伝承が消え失せることを心配し,石碑を建ててわたしに碑文を書かせた。なんと美しい先祖を思う心情ではないか。この碑文は以上のような次第で書いたものである。(以上原碑の碑文) この地は昔から鵺池と呼ばれていた。池のほとりに碑がある。しかし徳川氏の世になり京都所司代屋敷の中に取り込まれてしまった。だからその当時出版された京都ガイドブックの類には記されていない。 明治の初めに所司代屋敷跡に監獄が置かれた。それでもなお碑は大切に保存された。ただし雨風にうたれ文字は次第にすり減って見えなくなった。昭和2(1927)年に京都監あらため京都刑務所が山科に移転し,昭和9年,跡地に二条公園が設けられた。そのころにはまったく碑文が読めなくなっていたので,心ある人は残念に思っていた。 ところが元看守長青山咸懐氏という人がいて,在職時に原文を写していた。かすかに残る碑文の跡と青山氏が写した碑文の二つを総合したら碑文がはじめて明らかとなった。そこで有志が相談し,もとの碑とは別に新しい碑を建てて碑文を刻み,後世に伝えるものである。(以上昭和11年復元時の碑文) |