紀氏遺蹟碑碑 参考
紀氏遺蹟碑
我師香川景樹翁古今和歌集正義を著わして撰者紀氏を尊ぶこと紀氏の前に紀氏なく紀氏の後に紀氏なしと称へまた土佐日記創見を著わしてこの朝臣の土佐守の任末承平の秋にあたりて純友の群党南海におこりたちけるによくその賊を防ぎ民を護り給ひけむ智勇のあとの世にかくれたるをかのあ(らわ)されたる日記のうちに見あらわしいよいよ朝臣を尊み給ふこと尋常ならざりけるまにまに朝臣の由縁の地をたづねて祠をたて神霊をいつきまつらんことをはかり給ひけるうちに重き病にわずらひ嗣子景恒とおのれ忠秋にいひ残し給ひけるに景恒早く身まかりおのれまたあすしらぬ身を老い崩れ折れていと頼りなくおぼゆればいかで今この文明の時をうかがひ朝臣の功績を公に聞こえあげ奉り祠を建て柿本の神の如く御祀りにあづかり給わん事をひそかに思ひはかり朝臣の遺蹟をあらかじめさぐりおかまほしきにつきて按ふんみ古今和歌集を選びて奉り給ひし時降る春雨の漏るやしぬらんと詠み給ひし清貧の家のさままた土佐の国の任満ちてかへりみちのぼり給ひし日小松のあるを見かのかなしきと眺め給ひけん千年のあとを今ここと定めんことはおぼつかなれど鴨長明の無名抄また拾昔抄など見合いて考ふればこの桜町の藐姑射の山の中なりけむかしとしばらく思ひ定め土佐国の松山寺に古くより伝へて朝臣の筆跡なりといふ月の一字を写し鏡の裏に鋳りて神霊代と崇め脇辺に祀りしをこたびこの阿古世の渕の辺に埋み碑を建てて更に公の御沙汰もて御祀りにあづかり給わんことを待ちたてまつるにこそ
      明治八年十月九日                        後学   渡辺忠秋謹書
                                                        正二位三条西季知書
*竹村俊則「紀貫之桜町邸址」(『上京乃史蹟』48号 1988年上京区文化振興会刊)より/かなづかい,清濁,( )内本文補足は竹村に従うが句読点,竹村注記,ふりかなは省いた