療病院碑

KA020

りょうびょういんひ
石碑(0029528)石碑周辺(0029529)

 療病院は府立医科大学附属病院の前身で,蘭学医明石博高(1839〜1910)らが資金を募って創設した。明治5(1872)年9月,木屋町二条に仮病院を開設しドイツ人医師らによる診療を開始,11月に青蓮院に移り診療と医学教育が行われた。同13年仮病院から本院に発展し,この地に開院した。明治36(1903)年,京都府立医学校が京都府立専門学校(現京都府立医科大学)に改編された時に同校の附属病院となった。この碑は療病院開院を記念するものである。

所在地上京区河原町通広小路(京都府立医科大学内)
位置座標北緯35度01分23.0秒/東経135度46分11.3秒(世界測地系)
建立年1880年
建立者(京都府カ)
寸 法高250×幅143×奥行64cm
碑 文
[西]
療病院碑【篆額】
人而疾病也耶欲学弗能也人而*羸也耶欲勉亦弗能也弗学焉弗勉焉何
以殖其才而富其家乎夫人材乏而民戸貧者乃国之病也是故施政之務未
有急於除民疾病而保其健康者也我府奉維新之   聖旨夙行種痘術布駆
疫法遠徴名医於海外以改良衛生医薬方将有大所救済矣明治五年始以
京東粟田青蓮院為療病仮院而其未及遽築本院者蓋以   鳳駕東遷後京
地衰弊民不堪其費也於是抑浮業省冗費更示積細成大之法於民大謀築
造継而捐金助費者歳多一歳至七年十月遂相攸於荒神口今地後三年
鳳駕西巡親賜内庫金弐千五百円及宮中廊屋以嘉賞此挙於是本年七月
工事告成蓋自剏謀築造至是為歳凡九年而其費金為凡五万九千三百十
有一円鳴呼起業之難可以知也今量其地之広狭凡可二百畝而其所築講
堂三病室二十有九有手術之場有診察之所自製薬局至教師館医生寮結
構之完備可観也夫如此者苟非   聖旨昭於上民心奮於下則終不能成此
完備也自今而後除民疾病而保其健康矣非難也庶幾乎後之為政於斯土
者能思其始而善其終莫敢有廃墜焉俾斯民永霑明治   皇沢矣因記其顛
末使刻於石以告後人云
明治十三年十二月                     京都府知事従五位   槙村正直撰文
            二品大勲位熾仁親王篆額      京都府四等属   中村   勤敬書
[東]
岡野伝三郎鐫

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調 査2002年2月4日
備 考


碑文中「*」字

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