伏見土佐藩邸跡

HU157

ふしみとさはんていあと
石碑(0028177)石碑周辺(0028178)

(解説は本碑の東に隣接する副碑碑文にゆずる)

所在地伏見区南浜町
位置座標北緯34度55分50.1秒/東経135度45分41.2秒(世界測地系)
建立年2009年
建立者伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会
寸 法高110×幅18×奥行18cm
碑   文
[南]
伏見土佐藩邸跡
[北]
平成二十一年十二月建之
   伏見観光協会
   (社)伏見納税協会青年部会
[副碑南]
                  伏見土佐藩邸跡
   寛文10(1670)年の『山城国伏見街並近郊図』に「南浜三丁」とあり、そ
の東部に松平土佐守屋敷と記されています。この屋敷は土佐藩邸のことで『伏見」
大概記』には土佐藩は塩屋町で3軒分、南浜町で1軒分の町役を負担していた」
ことから、塩屋町での役割が高かったといえます。町役とは物や労働力を負担す」
ることで税金のひとつ。南浜町の藩邸には藩主や正室・側室・腰元らの生活をす」
る「御殿」はなく、家臣の生活や労働の場であったと考えられます。このあたり」
には幕府の公用や船着き場に関連した人や物資の輸送を担った伏見伝馬所があり」
ました。また、木津屋与左衛門や大津屋小兵衛宅などが本陣として利用され、その」
周辺には旅籠が並んでいました。
   慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いで土佐藩兵は警備についてはいました
が、藩主【ママ】・山内容堂は「このたびの戦争は薩摩・長州と会津・桑名の私闘である」
から、沙汰をするまでは戦争に加わることを禁止する」と告げていました。しかし、」
藩大目付の板垣退助は「京都で事が起これば、黙って薩摩と行動を共にせよ」と、」
密命を出していました。藩士の一部は藩主の命令を無視して参戦、徳川軍が敗退し」
たので、土佐藩主は「復古討賊に大功あり」として、朝廷から称賛をされました。」
                                                        伏見観光協会
                                                        (社)伏見納税協会   青年部会
                                                        平成21年12月   建立
調 査2010年1月6日
備 考副碑碑文本文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト


位置図
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