所在地 | 伏見区表町(京都市伏見土木事務所前) |
位置座標 | 北緯34度55分46.0秒/東経135度45分31.2秒(世界測地系) |
建立年 | 2009年 |
建立者 | 伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会 |
寸 法 | 高110×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
| [東] |
| 伏見長州藩邸跡 |
| [南] |
| 平成二十一年十二月建之 |
| 伏見観光協会 |
| (社)伏見納税協会青年部会 |
| [副碑北] |
| 伏見長州藩邸跡 |
| 長州藩の藩祖は毛利輝元でその父、元就は豊臣秀吉に仕えた名高い戦国武将。」 |
| その領地は中国地方の大半を占めていました。伏見城造営当初の藩邸は『豊公」 |
| 伏見ノ図』や中井家所蔵の『伏見城絵図』によれば城下の西の端、大名屋敷の一角」 |
| と毛利橋の東に『毛利長門守』の屋敷が記されています。慶長5(1600)年 |
| の関ヶ原の戦いで輝元は西軍の大将として参戦して敗戦。徳川家康は戦争責任を」 |
| 問い輝元を隠居させ、その子、秀就に周防と長門の2国、現在の山口県を与えまし」 |
| た。 |
| 江戸時代中期の元禄12(1699)年の『御香宮文書』には中書島の新地開発 |
| を許可されたことが記されており、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきた」 |
| と考えられます。この辺りと三栖向町の間には船大工町があり、船や船具製造」 |
| に従事する人びとが暮らしていました。屋敷地は通りに面して町家が建ち並び、」 |
| 藩邸がその奥にあるような形態をしていました。 |
| 幕末の元治元(1864)7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見 |
| 長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。 |
| その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵」 |
| と衝突、禁門の変が勃発しました。福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立」 |
| ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見」 |
| 藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。 |
| 伏見観光協会 |
| (社)伏見納税協会 青年部会 |
| 平成21年12月 建立 |
調 査 | 2010年1月6日 |
備 考 | 副碑碑文本文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト |