伏見長州藩邸跡

HU155

ふしみちょうしゅうはんていあと
石碑(0028173)石碑周辺(0028174)

(解説は本碑の北に隣接する副碑碑文にゆずる)

所在地伏見区表町(京都市伏見土木事務所前)
位置座標北緯34度55分46.0秒/東経135度45分31.2秒(世界測地系)
建立年2009年
建立者伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会
寸 法高110×幅18×奥行18cm
碑   文
[東]
伏見長州藩邸跡
[南]
平成二十一年十二月建之
   伏見観光協会
   (社)伏見納税協会青年部会
[副碑北]
                  伏見長州藩邸跡
   長州藩の藩祖は毛利輝元でその父、元就は豊臣秀吉に仕えた名高い戦国武将。」
その領地は中国地方の大半を占めていました。伏見城造営当初の藩邸は『豊公」
伏見ノ図』や中井家所蔵の『伏見城絵図』によれば城下の西の端、大名屋敷の一角」
と毛利橋の東に『毛利長門守』の屋敷が記されています。慶長5(1600)年
の関ヶ原の戦いで輝元は西軍の大将として参戦して敗戦。徳川家康は戦争責任を」
問い輝元を隠居させ、その子、秀就に周防と長門の2国、現在の山口県を与えまし」
た。
   江戸時代中期の元禄12(1699)年の『御香宮文書』には中書島の新地開発
を許可されたことが記されており、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきた」
と考えられます。この辺りと三栖向町の間には船大工町があり、船や船具製造」
に従事する人びとが暮らしていました。屋敷地は通りに面して町家が建ち並び、」
藩邸がその奥にあるような形態をしていました。
   幕末の元治元(1864)7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見
長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。
その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵」
と衝突、禁門の変が勃発しました。福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立」
ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見」
藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。
                                                        伏見観光協会
                                                        (社)伏見納税協会   青年部会
                                                        平成21年12月   建立
調 査2010年1月6日
備 考副碑碑文本文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト


位置図
位置図

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