坂本龍馬避難の材木小屋跡

HU154

さかもとりょうまひなんのざいもくごやあと
石碑(0028171)石碑周辺(0028172)

(解説は本碑の東に隣接する副碑碑文にゆずる)

所在地伏見区過書町(大手橋西詰北側)
位置座標北緯34度55分58.4秒/東経135度45分21.7秒(世界測地系)
建立年2009年
建立者伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会
寸 法高110×幅18×奥行18cm
碑   文
[南]
坂本龍馬   避難の材木小屋跡
[西]
平成二十一年十二月建之
   伏見観光協会
   (社)伏見納税協会青年部会
[副碑南]
                  坂本龍馬、避難の材木小屋跡
   慶応2(1866)年1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、
長州藩【ママ】の三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲」
まれました。風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知して2階の龍馬に危機を告」
げたので、龍馬はピストルで応戦。三吉は槍を構えて戦いましたが乱闘になり、」
龍馬は両手首を切られてしまいます。負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜」
けて、隣家の戸を破り小路に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付」
き、方向転換して川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、龍馬をその小屋に置」
いて濠川沿いの伏見薩摩藩邸に駆け込みました。この事件の顛末の詳細は「三吉」
慎蔵日記」に記されており、龍馬が潜んだとされる西浜の材木小屋は濠川の左岸」
南方にあったといわれています。
   藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩」
の旗印を掲げた船を出して龍馬を無事救助しました。龍馬の傷は深く、静脈」
も傷つき、翌日まで出血が止まらなかったと龍馬の手紙にも記されています。龍」
馬とお龍は1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ヶ月後に西郷隆盛らとともに」
薩摩藩の蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ向かい、傷の治療をかねて霧島温泉に向」
かいます。これが、後に日本で最初の新婚旅行といわれています。
                                                        伏見観光協会
                                                        (社)伏見納税協会   青年部会
                                                        平成21年12月   建立
調 査2010年1月6日
備 考副碑碑文本文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト


位置図
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