所在地 | 伏見区越後屋敷町 |
位置座標 | 北緯34度56分55.3秒/東経135度45分45.5秒(世界測地系) |
建立年 | 2009年 |
建立者 | 伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会 |
寸 法 | 高110×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
| [南] |
| この付近 近藤勇遭難の地 |
| [西] |
| 平成二十一年十二月建之 |
| 伏見観光協会 |
| (社)伏見納税協会青年部会 |
| [副碑南] |
| この付近、近藤勇遭難の地 |
| 街道の宿場町としての拠点がここ墨染界隈にもありました。京都へ通じる伏見」 |
| 街道、大津へ至る大津街道、そして、八科峠を越えて六地蔵から宇治に向かう道、」 |
| 墨染は大きな3つの街道の分岐点にあたり、人馬の往来が激しく、土産物屋では」 |
| 伏見人形・深草団扇・深草焼塩・伏見鋸などが売られていました。参勤交代の大名」 |
| 行列はこの墨染から藤森神社の南鳥居の前を進み、西寺町、谷口町を経て山科」 |
| の勧修寺前に出ます。そして、山科川を渡り、小野隋心院【ママ】を北に折れて追分けへ」 |
| 大津に向かう道が定められていました。 |
| 幕末の慶応3(1867)年12月18日、伏見奉行所に陣を移した新選組の隊長・」 |
| 近藤勇は京都町奉行所の若年寄・永井玄蕃守との軍議のため、二条城に赴きま」 |
| した。この頃すでに、幕府軍と薩摩長州軍との間に戦がいつ始まっても不思議」 |
| ではない緊張関係にありました。近藤は護衛約20名を伴っての帰り道、伏見街道」 |
| が屈曲する墨染通り付近で狙撃されました。狙っていたのは御陵衛士の生き残り」 |
| 阿部十郎と、伏見薩摩藩邸にいた篠原泰之進、加納道之助、富山弥兵衛らでした。」 |
| 弾は左肩に命中しましたが致命傷には至らず、そのまま馬を走らせて伏見奉行所」 |
| に逃げ込みました。近藤は治療のため大坂に退き、副隊長・土方歳三が新選組の」 |
| 指揮を執り、近藤は鳥羽伏見の戦いへ参戦することができなかったのでした。」 |
| 伏見観光協会 |
| (社)伏見納税協会 青年部会 |
| 平成21年12月 建立 |
調 査 | 2010年1月6日 |
備 考 | 副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト |