近藤勇遭難の地

HU153

こんどういさみそうなんのち
石碑(0028169)石碑周辺(0028170)

(解説は本碑の東に隣接する副碑にゆずる)

所在地伏見区越後屋敷町
位置座標北緯34度56分55.3秒/東経135度45分45.5秒(世界測地系)
建立年2009年
建立者伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会
寸 法高110×幅18×奥行18cm
碑   文
[南]
この付近   近藤勇遭難の地
[西]
平成二十一年十二月建之
   伏見観光協会
   (社)伏見納税協会青年部会
[副碑南]
                  この付近、近藤勇遭難の地
   街道の宿場町としての拠点がここ墨染界隈にもありました。京都へ通じる伏見」
街道、大津へ至る大津街道、そして、八科峠を越えて六地蔵から宇治に向かう道、」
墨染は大きな3つの街道の分岐点にあたり、人馬の往来が激しく、土産物屋では」
伏見人形・深草団扇・深草焼塩・伏見鋸などが売られていました。参勤交代の大名」
行列はこの墨染から藤森神社の南鳥居の前を進み、西寺町、谷口町を経て山科」
の勧修寺前に出ます。そして、山科川を渡り、小野隋心院【ママ】を北に折れて追分けへ」
大津に向かう道が定められていました。
   幕末の慶応3(1867)年12月18日、伏見奉行所に陣を移した新選組の隊長・」
近藤勇は京都町奉行所の若年寄・永井玄蕃守との軍議のため、二条城に赴きま」
した。この頃すでに、幕府軍と薩摩長州軍との間に戦がいつ始まっても不思議」
ではない緊張関係にありました。近藤は護衛約20名を伴っての帰り道、伏見街道」
が屈曲する墨染通り付近で狙撃されました。狙っていたのは御陵衛士の生き残り」
阿部十郎と、伏見薩摩藩邸にいた篠原泰之進、加納道之助、富山弥兵衛らでした。」
弾は左肩に命中しましたが致命傷には至らず、そのまま馬を走らせて伏見奉行所」
に逃げ込みました。近藤は治療のため大坂に退き、副隊長・土方歳三が新選組の」
指揮を執り、近藤は鳥羽伏見の戦いへ参戦することができなかったのでした。」
                                                        伏見観光協会
                                                        (社)伏見納税協会   青年部会
                                                        平成21年12月   建立
調 査2010年1月6日
備 考副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト


位置図
位置図

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