所在地 | 伏見区東境町 |
位置座標 | 北緯34度56分15.3秒/東経135度45分32.2秒(世界測地系) |
建立年 | 2008年 |
建立者 | (特定非営利活動法人)京都歴史地理同考会 |
寸 法 | 高115×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
| [東] |
| 江戸時代 |
| 薩摩島津伏見屋敷跡 |
| [南] |
| 天璋院篤姫洛中洛外滞在時の宿泊地 |
| [北] |
| 坂本龍馬 寺田屋脱出後 避難之地 |
| [西] |
| 二〇〇八年十二月建之 |
| 特定非営利活動法人京都歴史地理同考会建之 |
| 寄附者 河畑 鎭 |
| [副碑東] |
| 江戸時代、ここに薩摩島津家の伏見屋敷がありました。 |
| 徳川将軍は3代家光以後、約230年間、江戸にこもり京都にやってきませんでした。」 |
| そのため原則として諸大名にも上洛を禁じました。西国大名が参勤交代のため」 |
| 江戸と本国を往復するときは京都ではなく、伏見を通ってゆきました。 |
| 島津家も例外ではありません。少なくとも寛文10年(1670)までにこの地に屋敷を」 |
| 営み、江戸と薩摩を往復する際の当主の滞在地としました。 |
| のち13代将軍徳川家定の正妻となる、島津斉彬の養女篤姫(天璋院)も、薩摩か」 |
| ら江戸にむかう途中の嘉永6年9月29日(1853年10月31日)、この屋敷に入りました。」 |
| ここを拠点に、10月2日洛中の近衛家、同4日萬福寺(現宇治市) |
| を訪問、同6日伏見をたちました。篤姫は以後、一度も洛中洛外を訪れませんので、」 |
| この地は彼女の生涯たった1度の「京都観光」の宿舎だったわけです。 |
| 慶応2年1月23日(1866年3月9日)深夜、蓬莱橋のたもとの南浜町の寺田屋で、土佐」 |
| 亡命志士坂本龍馬が、薩長同盟成立の重要人として、伏見奉行所役人の襲撃を受」 |
| けます。重傷を負いつつ脱出した龍馬は、濠川沿いの村上町の材木納屋に潜伏、」 |
| 妻龍(のち鞆)や長府毛利家臣三吉慎蔵の通報により、薩摩伏見留守居役大山彦八に」 |
| 救出され、この地に避難しました。 |
| 龍馬が大政奉還、新政府綱領八策などに関係するのはこれ以後のことで、もしこ」 |
| の地に救出されなければ、以後の幕末史はちがう形になったことでしょう。 |
| 歴史地理研究者 中村武生 |
調 査 | 2008年12月28日 |
備 考 | 副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト |