伏見義民焼塩屋権兵衛碑

HU146

ふしみぎみんやきしおやごんべえのひ
石碑(0027862)石碑周辺(0027863)

 天明5(1785)年9月,伏見の町人文殊九助と丸屋九兵衛が寺社奉行へ出訴した。これは伏見奉行小堀政方が町人に対し不法な御用金を課したことなどを訴えたものである。その後京都町奉行所や評定所で審理が行われ,天明8年5月に小堀は改易,出訴当事者として調べられた町人7名は御構いなしという判決が出された。しかし7人ともすでに病死や牢死で判決時に在世したものはいなかった。焼塩屋権兵衛は7人の一人で,この碑は権兵衛を顕彰するものである。なお建碑発起人の西村伊三郎は伏見(深草?)の人。砂子川のしこ名で相撲をとり,また相撲の興行にも携わった。

所在地伏見区深草鳥居崎町(藤森神社内)
位置座標北緯34度56分57.8秒/東経135度46分17.0秒(世界測地系)
建立年1920年
建立者西村伊三郎(発起人)
寸 法高340×幅146×奥行20cm
碑 文
[東]
義民焼塩屋権兵衛君碑【題額】
            文部大臣正四位勲二等中橋徳五郎題額
義民焼塩屋権兵衛君本姓平田氏深草邑に生る性任侠に富み真摯熱誠最
も力を公共の事に致し天明年間町年寄に挙けらる是より先安永八年伏
見奉行小堀政方の任に就くや驕奢に長し度支足らす遂に用金十万両を
治下に課す当時伏見は今の深草堀内向島の諸邑を併せ水陸の要区とし
て殷賑を極めしが茲に至りて居民虐政に窘しみ離散流亡相踵ぐ君其凶
状を坐視するに忍びず家事を男惣吉に委ね身を挺して吏奸を除き民怨
を伸べむと欲し文殊九助等と相謀り窃に同志と深草真宗院或は瓦町善
福寺の後堂に会し議熟するや九助等は江戸に赴きて之を幕府に訴へ君
は郷里に止りて之に策応し備に難苦を嘗めき既にして小堀氏職を罷め
られ素志纔に達し居民始めて堵に安ずるを得たりと雖とも義挙に余る
もの皆獄に投ぜられ君亦天明七年十一月四日獄中に死す嗚呼是れ所謂
身を殺して仁を成すものにして百載の下其風を開くもの誰か感奮せざ
らむ君の如きは洵に郷土の精華国士の典型として長へに欽瞻するに足
るべし乃ち其功績の梗概を述べ乃を碑に勒し以て後代に伝ふと云ふ
      大正九年三月               前衆議院議員奥野市次郎撰
                                          出雲路通次郎書
【以下碑文匡郭外】
         砂子川事
発起人   西村伊三郎      平安芳村茂右衛門刻
調 査2008年5月6日
備 考

位置図
位置図

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