薩摩藩義士碑

HU144

さつまはんぎしのひ
石碑(0027857)石碑周辺(0027858)

 宝暦4年(1754),薩摩藩は幕命をうけ木曽・長良・揖斐三川の治水工事を開始したが,予想外の難工事に工費は当初の見積りを大幅に越え,藩士の自刃する者50名,病死者32名を出し,宝暦5年の竣工後,総奉行平田靱負(1703〜55)は責任をとり切腹した。遺骸は薩摩藩との縁が深い大黒寺に葬られ,墓碑が現存する。この碑は平田靱負を義士として顕彰する碑である。なお建立者増田伊三郎は伏見の土木請負業者で「任侠の徒」として知られる。

所在地伏見区鷹匠町(大黒寺内)
位置座標北緯34度56分12.1秒/東経135度45分39.1秒(世界測地系)
建立年1919年
建立者増田伊三郎
寸 法高350×幅140×奥行20cm
碑 文
[北]
薩摩藩義士碑【篆額】
木曽の急流濃尾の野に潅ぎて万頃の豊田を作り民其恵沢に頼ると雖時に河水氾濫田圃を流し民屋を倒潰し惨害に苦」
しむこと幾年なるを知らず慶長以来洪水殊に甚しく沿岸の民疲労困乏遂に之が救助を幕府に献議す幕府之を容れ大」
に治水の計を画し宝暦三年十二月廿五日薩摩藩に命じて工事の任に当らしむ蓋一は以て治水の計を大成し一は以て」
財政上強藩を牽制せむとの政策に他ならず薩藩主之を知ると雖恭順よく其命を奉じ家老平田靱負翁を総奉行とし大」
目附伊集院十蔵以下約一千の精鋭に用金参拾万両を授けて直に事に従はしむ乃宝暦四年二月廿五日起工五月一旦中」
止し更に九月工を起して翌五年三月廿八日成を告ぐ工事の地十餘里に亘り堅牢比無く爾来復往時の惨害を見ず田土」
穰々として黄雲を漲らし沿岸の民鼓腹して生業に安じ今猶其遺沢に浴せり伝へ聞く薩藩の士固より土工に馴れず且」
陽春山谷の氷雪融けて水量漸く大に夏時豪雨頻に至りて河水屡氾濫し随て修むれば随て毀れ費用膨大事業未半なら」
ざるに資金既に盡き又策の施すべき無し然れども工事は之を阻止すべからず翁深く決する所あり諸士に謀りて曰く」
事既に此に至る宜しく更に資を求めて工費を辨じ上は君命を果して奉公の誠を致し下は永く百万の生霊を救ふ方途」
を講じ其独断專行資を得たる罪の如きは成功の後屠腹自決以て謝すべきのみと衆咸之に従ふ因て大阪に至り更に弐」
百数拾万両を調へ遂に此大難工事を完成し五年五月廿二日無事幕府の検分を終ふるや廿五日拂暁従容自裁せりとい」
ふ享年五十有三古人云へるあり慷慨義に赴くは易く従容死に就くは難しと而も生に処し死を択ぶは更に難し藩士の」
自刃する者前後五十病に斃るゝ者三十二翁能く其間に処して泰然動かず身を以て衆を率ゐ精励恪勤工事の大成を待」
つ誠に千古の名鑑鬼神をして壮烈に泣かしむるものあり然るに其事蹟永く堙沒して人の知る所とならず遺憾何ぞ堪」
へむ想ふに藩主深く之を賞して特に遺骸を此山城国伏見大黒寺に葬れりと雖も四囲の事情之を彰する由無く終に今」
日に迄べるものなるべし伊勢国桑名の人西田芝寿深く之を憾とし美濃国大垣の金森吉次郎と共に之が表彰に努め次」
で岩田徳義熱心奔走し事遂に天聴に達して大正五年十二月廿八日畏くも従五位を追贈せらる翁死して餘栄ありとい」
ふべく天下此より其盛名を嘆慕し其義烈を欽仰せざる者無きに至れり伏見の人増田伊三郎亦其義に感じ瑩域の荒廃」
を歎き之を修めて石を墓前に建て永く其事蹟を後人に伝へむとし文を余に徴す乃経歴の梗概を叙すと云爾」
      大正八年十一月二十五日
                           正四位勲三等公爵島津忠重題額
                              京都府知事正四位勲二等馬淵鋭太郎撰         出雲路通次郎書」
調 査2008年5月1日
備 考

位置図
位置図

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