鳥羽伏見戦跡碑HU024 |
とばふしみせんせきひ |
大政奉還し大坂城にいた徳川慶喜(1837〜1913)は薩摩を討つため上洛を決意し,慶応4(1868)年正月3日,幕府軍本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍した。この地に布陣した薩摩砲兵の一隊と幕府軍の間で戦いが繰り広げられた。この石碑は,翌年夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の跡を示すものである。なお,石碑の建つ小高い丘は秋の山といわれ,鳥羽離宮庭園の築山の一つと伝える。 |
所在地 | 伏見区中島御所ノ内町(鳥羽離宮跡公園内) |
位置座標 | 北緯34度56分59.7秒/東経135度44分37.5秒(世界測地系) |
建立年 | 1912年 |
建立者 | |
寸 法 | 高229×幅113×奥行23cm |
碑 文 |
[東] | |
鳥羽洛南之名勝也 白河帝時建離宮于此 鳥羽帝時増修 列聖時時 | |
臨幸游豫載在史牒不知其廃于何時土人今猶指秋山一帯地曰城南離宮秋山 | |
東有真幡寸神社旧称城南神鳥羽氏世掌其祭祀明治紀元正月官軍大破徳川 | |
氏兵於鳥羽街道於是鳥羽之名益著矣時徳川慶喜在大阪城遣会桑等兵犯京 | |
師自鳥羽伏見両道而進薩長等諸藩兵奉 勅守両道鳥羽則薩藩当之三日日 | |
暮接戦于秋山下奮闘移時賊遂潰走伏見亦同時開戦亦大克之官軍追撃南下 | |
慶喜倉皇東還尋謝罪反正其後雖東北有梗命者旬月之間悉帰平盪豈非此一 | |
戦為之端耶距今已四十有五年矣 皇治休隆文明之化日躋桑麻被野民生安 | |
富欲問当日戦争之跡父老希復存者今真幡寸神社社司鳥羽重晴君与地方有 | |
志之士胥謀以斯後維新基業所由定将立石以表遺蹟又以見 聖代恩徳之深 | |
厚也見徴余文余*此挙乃不敢辞叙其梗概又併識往古離宮故事是亦考古者 | |
之所宜致思也 | |
明治四十五年二月 貴族院議員従三位勲二等小牧昌業撰 | |
平安処士 山田得多書 | |
[西] | |
発起人 | |
真幡寸神社社司 | |
鳥羽重晴 | |
仝社掌 | |
鳥羽重節 | |
氏子総代 | |
大橋三郎兵衛 | |
高橋五左衛門 | |
竹内源左衛門 | |
小山浅次郎 | |
西井栄次郎 | |
山本市之助 | |
長谷川末吉 | |
京都石工 武輪角次郎刻 |
碑文の大意 | ここをクリック |
調 査 | 2002年2月13日 |
備 考 |
碑文中「*」字 |
位置図 | |