| [東] |
| 京都歩兵聯隊跡 |
| 舞 伝男書 |
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| [副碑] |
| 藤の森神社東側の台上は 五十年にわたり郷土歩兵聯隊が駐屯し 十 |
| 万をこえる将兵が苦楽を共にし 生死を誓い 日夜修身練武に精進した |
| 深草兵営の跡である |
| 歩兵第九聯隊は明治建軍に当たり 明治七年に創設せられて大津にあ |
| った これを母体として明治二十九年歩兵第三十八聯隊が編成され |
| 翌三十年七月この兵舎の竣工をまつてこの地に屯した 大正十四年五 |
| 月 軍制改革により歩兵第三十八聯隊は奈良に移駐 以来歩兵第九聯隊 |
| 主力がここに駐屯することになった |
| 歩兵第九 第三十八の両聯隊は 明治三十七・八年の日露戦争に出征 |
| 第四師団に属して南満州の金州・南山・遼陽・奉天の諸会戦に参加して |
| 赫赫たる武勲を建てた 満州事変にさいしては 京都第十六師団の隷 |
| 下にあつて北満の警備に任じ ついで昭和十二年支那事変勃発するや北 |
| 支 中支に転戦し 南京城を陥れ 徐州に戦い 長駆大別山を突破して |
| 武漢攻略戦に不朽の戦績をのこした 歩兵第九聯隊は 昭和十六年大 |
| 東亜戦争劈頭比島に敵前上陸してバターン半島を席捲 マニラ攻略の |
| 後■力をもつてレイテ島を守備していたが 優勢なる米軍主力の反攻を |
| 受け死闘数十日 ついに聯隊長以下全員軍旗とともに玉砕し光輝ある聯 |
| 隊の歴史を閉じた 時 昭和十九年十二月八日 |
| 歩兵第百九聯隊は 昭和十三年この地において編成され中支に出動 |
| 長期にわたり揚子江中流地域の警備に任ずるほか 湘挂・*江の激戦に |
| 参加し 幾度か敵の重囲に陥りながらよく奮戦力闘を重ね 終戦ととも |
| に矛を収めて内地に帰還した。 |
| このほか大東亜戦争の戦局いよいよ熾烈を極めるにしたがい この兵 |
| 舎(通称 中部第三十七部隊)において或は動員され 或いは兵員を補充され |
| た諸部隊は数多くあつたがそのうち主なものを列挙すれば インド イ |
| ンパールに進攻した歩兵第六十聯連隊(祭) ビルマの各戦線に苦闘した歩兵 |
| 第百二十八聯隊(安) 沖縄にその最期を飾った歩兵第六十三旅団(石)ミン |
| ダナオ島に戦った独立守備歩兵第三十五大隊(幸) 本土防衛に任じた護京 |
| 比叡 山城諸兵団の歩兵聯隊等である |
| 顧みれば これら諸隊の将兵がこの兵営をあとに出陣するにさいし |
| 戦勝と武運の長久とを祈願したのはこの藤森神社であった |
| 今や時は移り星は流れて幾春秋 かつての勇壮なる軍歌の響きも絶え |
| て久しく 懐しき兵営の面影も過去の帳のうちに消え去らんとしている |
| しかしながら 祖国を愛し 祖国を護り 進んで国難に殉じた郷土部隊 |
| の光栄ある歴史と名誉ある伝統とは永遠に後世に伝えられるべきである |
| 時あたかも明治百年を迎えるに当たり ここに京都歩兵聯隊関係者一 |
| 同あい図り 由緒深きこの地を史跡とし先人戦友の遺勲を顕彰して長く |
| その功を讃え 陣没した幾多の英霊を慰めるとともに 国連の隆盛と世 |
| 界のい平和とを祈念して思い出多き聖域にこの碑を建てるものである |
| 昭和四十三年四月十八日 |
| 京都歩兵聯隊跡記念碑建設会 |