| [北西] |
| 魚市場遺跡【題額】 |
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| 我横大路邨は往昔草津の湊と称す浪華より平安に通するの要衝にして |
| 平安奠都以還東西行客の来往織るか如く豊公居を桃山にトすると共に |
| 百資聚散の枢区となり大小数千の問屋甍を接して盛に之か配給を司れ |
| り殊に生魚の如きは近くは摂播泉遠きは紀阿淡方面よりし曳船数十隻 |
| 徹宵澱江を溯り艤操搬運許邪の声之に和して我横大路村に集るや陸路 |
| 健脚の壮夫を駆て担荷之を運搬し絡繹常に絶ゆるなく禁裏御所を始め |
| 洛中洛外より近畿各地の給需に便せり慶応元年徳川幕府より一大魚市 |
| 場の公設を命せらるゝや大橋孫四郎氏率先之か経営の衝に当り同業者 |
| 続出一村為に殷賑を極めたりしか明治十年京都神戸間銕路開通の議あ |
| るや一村興廃之か因たらんと大橋仁兵衛奥島八郎兵衛両氏深く之を憂 |
| ひ百方輓回の策を講せるも時代の趨勢亦奈何ともする能はず両氏意を |
| 決し慨然涙を呑て京都七条駅頭に魚市場を開設す銕路既に成り物貨の |
| 運輸は果して両氏先見の如く総て文明利器の吸集する所となり曳船の |
| 運送忽ち衰頽すると共に魚市場も亦其跡を滅するに至れり豊公治世以 |
| 来百貨聚散之か呑吐の中心地として三百有余年間旺盛を誇りし我横大 |
| 路村は今也麦隴菜圃の一農村と化し去り復往時を夢想するものなきに |
| 至れり滄桑の変古来其例に泛しからず時勢の変遷蓋し已むを得さる所 |
| なりと雖転々隔世の感なしとせず歳遷ると共に之が遺跡の湮滅せんこ |
| とを憂ひ大橋一家相謀り喜平治翁の在世を幸に之が事歴を審かにし此 |
| 碑を建て以て永く後昆に示さんとす 洛陽僑人的場正三郎撰書 |
| [南東上段] |
| 伏見区横大路は平安京の昔より草津の港 |
| として栄え、明治十年京都、神戸間に鉄 |
| 道が開通するまで一千年の永きに亘り、 |
| 水上交通の要衝として東西行客の来往盛 |
| んとなり、京への生鮮魚介類の輸送もこ |
| こを集散の場として賑いをみせていた |
| しかし鉄道の開通はこの魚市場を廃虚と |
| 化し、その伝統は現在の中央卸売市場に |
| 受け継がれているが、旧跡をしのんで大 |
| 正八年四月大橋家により魚市場遺跡碑が |
| 建てられた。しかしその後の荒廃により |
| 京都市中央卸売市場の水産小売業者をは |
| じめ、業界関係者の発起、厚志により、 |
| この地に魚市場遺跡碑が再建された |
| 昭和六十年六月 |
| 魚市場遺跡碑再建委員会 |
| 委員長 山田定一 |
| [南東下段] |
| 京都水産物小売団体連合会 会長 山田定一 【次項・次々項も兼ぬ】 |
| 京都水産物商業協同組合 理事長 |
| 京都海産物買出組合 組合長 |
| 京都水産物商業協同組合 副理事長 増田治一 【次項も兼ぬ】 |
| 京都乾友会 会長 |
| 京都魚菜酢商協同組合 理事長 大八木泰蔵 |
| 京都錦水産物協同組合 理事長 桑山皓 【次項も兼ぬ】 |
| 京都水産物商業協同組合 副理事長 |
| 京都府寿司環境衛生同業組合 理事長 荒木信次 |
| 京都蒲鉾商組合 組合長 池内常郎 |
| 京都水産物商業協同組合 副理事長上京支部長 直海真十郎 |
| 同 副理事長南支部長 山根義次 |
| 同 副理事長左京支部長 山本光蔵 |
| 同 北支部長 黒田幸男 |
| 同 中京支部長 渡辺正利 |
| 同 下京支部長 西村太一 |
| 同 右京、西京支部長 中山健治 |
| 同 東山支部長 高田亮太郎 |
| 同 山科支部長 西田宗治郎 |
| 同 伏見支部長 水谷勉 |
| 同 都水産協和会会長 吉田春一 |
| 同 公設塩乾公友会理事長 野田佳■ |
| 順不同 |
| [台座] |
| (印) |
| 魚魂 |
| 大悲山亘令書(印)(印) |
| 京都水産団体 |
| 連合会 |
| 会長 山田定一 |