薩土討幕之密約紀念碑

HI197

さつととうばくのみつやくきねんひ
石碑 石碑周辺

   (解説は、石碑北面の記述に譲る)

所在地東山区清本町
位置座標北緯35度00分17.0秒/東経135度46分28.1秒(世界測地系)
建立年2019年
建立者杉田衆星会・板垣退助先生顕彰会
寸 法高125.0×幅15.0×奥行15.0cm
碑 文
[西]
薩土討幕之密約紀念碑
[南]
慶応四年正月四日伏見合戦に於ける参戦者
      山田喜久馬清廉(土居平左衛門)」
吉松速之助秀枝   二川元助(阪井重季)
      山地忠七元治   北村長兵衛重頼   併配下士」
      早馬伝令谷守部干城   錦旗伝奏本山只一郎茂任」
[東:上半]
明治維新百五十一年   伯爵板垣退助薨去百周年紀念
[東:下半]
令和元年七月十六日   題辞揮毫   玄孫高岡功太郎
一般社団法人杉田衆星会代表理事杉田勘一郎   建之
一般社団法人板垣退助先生顕彰会  併  有志一同
[北(金属板をはめ込む)]
慶応三年五月十八日土佐藩の乾(板垣)退助、福岡孝弟、中岡慎太郎、広島藩の船越洋之助らは京都の料亭近安楼で武力討幕の密議を交わし、次で中岡慎太郎の仲介に依て二十一日薩摩藩小松邸(上京区)へ」
場所を移し、西郷隆盛、吉井幸輔、小松帯刀と、乾退助、谷干城、毛利恭助、中岡らは更に討幕を議して命運を誓い薩土討幕の密約を締結した。翌日退助は、これを山内容堂へ稟申して承認を得るや大坂で」
アルミニー銃三百挺の購入を命じ土佐に帰国して軍制改革・近代式練兵を行った。翌年正月鳥羽伏見に砲声轟き、聖勅下るや吉松速之助、山地忠七、山田喜久馬ら土佐藩氏は、この密約を履行し緒戦より」
参戦。この功に依て土佐藩は、錦の御旗を御下賜あらせられ、迅衛隊は土佐を出発。二月十四日京都で   禁裏を拝し乾退助を総督として出陣。此日が退助の先祖板垣駿河守信方の命日にあたる為、退助は」
策を巡らせ父祖の故地甲府進撃に備えた美濃大垣で姓を板垣に復し甲府城へ入城。甲州勝沼で近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を撃破し軍略巧に快進撃を続け遂に会津を平定した。板垣は己の名誉徳望を欲せず寧ろ」
敵方への寛典を唱へ其名回復に努めた。顧みるに幕末西郷、板垣の両傑に依て締結せられたこの密約は将に、皇軍を勝利に導き維新回天の大業を成し遂げる起点と成りしことから、其等を紀念し此碑を建る」
調 査2024年4月17日
備 考東面碑文のうち、杉田の「杉」は、いずれも木篇に「久」と書く異体字を用いている。

位置図
位置図

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