淡海槐堂先生旌褒碑 碑文の大意
 槐堂先生は名緝,字は敬夫,頑仙と号した。別に懶僊・癡呆子・*道人などの号がある。はじめに公家の醍醐家に仕え,板倉氏を称し,筑前介に任じられ従六位下に叙せられた。維新後はわけあって淡海と改姓した。
 幕末には日本中が揺れ動き,尊王攘夷を主張する者が輩出した。槐堂先生もこの運動に加わり,自費で日吉山に演武場(武道練習場)を開き,諸藩の志士を集め大いに士気を高めた。大和の天誅組蹶起・常陸の天狗党の乱に関係し幕府に逮捕され,三年にわたり獄にあった。
 のち釈放され,政権が朝廷に帰してからは徴士として大津裁判所参謀に任じられた。ついで待詔院判官になったが辞職。以後官吏の道とは縁を切った。しかし憂国の思いはやむことなかった。彼の持論は島津左府公(久光)と一致し,久光公が(政府に対する反感から)辞職するにあたり,嫌疑を受けてしばらく拘留されたことがあった。釈放されてからは時事を批評することを止め,絵を描くことを楽しみとした。その遺品に獄中でこよりや水薬を使って制作した詩歌集がある。すべて世に対する不満をあらわしたものである。
 明治十二年六月十九日に自宅で病没。享年五十八。生前みずから墓地を岡崎村に準備していたので,その地に葬られた。明治二十四年二月二日(十三回忌にあたり),生前の忠節に対し祭粢金を天皇から賜った。その子弘と親戚・知人が碑を建立し,天恩を記念するものである。