維新戦役忠魂碑 碑文の大意 |
慶応三年十月四日、徳川慶喜は二条城で政権を朝廷にお返しした。同二十四日、さらに将軍辞職を申し出た。そこで(王政復古の大号令が出され)天皇の命により親王や公家や時に朝廷に奉仕していた大名が協議し、十二月に総裁・議定・参与の三職を置くことになった。有栖川宮熾仁親王が総裁に任命され、近衛・鷹司以下の公家二十餘人の職務を解いた。また、京都から追放された七卿および長州藩主の官位をもとに戻し、会津・桑名両藩の京都御所周辺九門警備をやめさせた。 十二月十日、慶喜の辞表を受理し、かつ官位と領地の返納を命じた。鎌倉幕府成立以後、政権が武家ににぎられ七百年たったが、今ここに朝廷に政権が帰すことになり、新しい政治に期待が集まった。この時幕府方の軍の在京都の者は心に不満をいだき、いつ不測の事態が起きてもふしぎではない情勢になった。十二日夜、慶喜は兵を率いて大坂城へ退去し、留まって京都へ請願を出したので幕府方の人心も多少おちつき慶喜の命に従った。 慶応四年正月二日、慶喜は軍隊を率い京都へ向った。会津・桑名の両藩兵一万人以上が先遣隊となり、会津軍は伏見から、桑名軍は鳥羽を経由し上京しようとした。これ以前に、わが長州藩は討幕密勅を賜り、重臣毛利内匠に奇兵・整武・鋭武・膺懲・第二奇兵・遊撃・振武の諸隊および支藩徳山と右田などの兵二千餘人を指揮させ、先発して入京し東福寺に陣を張った。ここに薩摩藩の兵数千人と協力し、部署を定めて防御を固めた。 正月三日、敵(幕府方)の先遣隊が伏見に進んだ。我が軍は制止したが聴こうとしなかった。交渉を続けている最中に鳥羽方面で砲声が起きた。そこで戦端を開き決死の覚悟で戦闘を続けたが、翌日の夜明けに東軍(幕府方)は敗れ淀城まで退去した。四日、仁和寺宮(小松宮)彰仁親王が征討大将軍に任じられ、錦旗と節刀を賜った。五日、官軍が伏見・鳥羽の両方面を平定した。賊軍は錦旗を見て意気喪失し、さらに山崎を守っていた津藩兵が官軍に味方し退路を砲撃した。ここに賊軍は敗れ、慶喜は海路江戸へ逃れ謹慎して処分を待った。翌年五月に五稜郭が陥落し東北諸藩もすべて敗れ戊辰戦争は終結した。 わたし(碑文筆者三浦梧楼)は部隊を率い伏見で戦った。相手の会津藩兵は奮闘し、我が軍にも死傷者が多く、わたしも負傷した。しかし我が軍の将士は決死の覚悟で、少ない兵力で優勢な敵に当り、最後にはかろうじて勝利をおさめ、維新王政のはじめに貢献した。これは古今未曾有の事である。鳥羽伏見の戦闘で負けていたら(後醍醐天皇が尊氏に敗れ天皇親政が中絶した)建武の先例をくりかえすことになったであろう。英明な天皇が君臨し、時勢も味方したとはいえ、鳥羽伏見で戦死した者の功績を忘れてはいけない。 ことし丁巳の年(大正六年)は戦没者の五十年忌にあたる。そこで同志を募り碑を東福寺の墓地の側に建て戦没者の忠魂を慰め、かつ戦闘の経緯を述べ、後世の人に明治国家の設立は死者の忠誠に拠ることを知らせるものである。 |