戸田忠至碑 碑文の大意
 文久2年に宇都宮藩主越前守戸田忠恕は,幕府に上書し,歴代の天皇陵を補修することを願い出た。その主旨は国威をかがやかすには血気にはやることではなく,忠孝を勧めることが大切で,忠孝を勧めるためには先祖を顕彰することにある,ということである。
 幕府はその願いを許可し家臣の中からしかるべき者を選び担当させよと命じた。この時藩主忠恕はわずか十六七歳で,戸田忠至氏は藩主の一族ということで任に当たることになった。その時には重臣間瀬家を嗣いで間瀬和三郎といったが,戸田姓に復し(朝廷から)山陵奉行に任じられ,藩主にかわって野山を歩き,山陵修復工事を監督した。翌年神武天皇陵の工事に着手し,詔して従四位下に叙せられ大和守に任じられた。二百人扶持を賜った。
 最初外交問題に端を発し,全国で志士が尊王攘夷の大義を主張した時,戸田氏はひそかに志士と気脈を通じ,また館林の人岡谷繁實を京都に遣わし,公家の間に関東の形勢を説かせ,勅使の江戸下向を勧めた。たまたま幕府は皇女和宮の降嫁を懇願し,不安な世情を鎮めようとした。戸田氏は状況を洞察し,心にその時期が到来するのを期待した。しかし幕府は多くの志士を逮捕し,宇都宮藩士も大橋順蔵らが獄に下った。戸田氏は尊王攘夷の時がすぐに実現できるわけではないと悟り,勤王の実行は攘夷だけではないと方針を転換し,藩主を補佐し藩政を改革した。後日の山陵修復の功績はまったくここに淵源を持つのである。
 当時幕府は衰退し,国内にはさまざまな事件が起きたが,戸田氏は神武天皇陵以下百あまりの山陵修復に専念,慶応元年に竣工した。修復前と後の二種類の図を作製し,これを天皇に献上した。孝明天皇はこれを嘉納し,戸田氏は特に大名と同格で拝謁し,剣一振を賜った。幕府からも刀を下賜し功績を賞した。さらに宗家宇都宮藩戸田家から一万石を分割し大名として独立させた(下野国高徳藩)。また先祖忠次にも従四位下が追贈され,宇都宮藩主戸田忠恕もまた刀を下賜された。すべて異例の処遇である。
 天皇陵は久しく荒廃のまま放置されていた。江戸幕府になりようやく材木伐採が禁じられた。元禄享保期に至り,常憲院殿(徳川綱吉)・有徳院殿(徳川吉宗)の両将軍が始めて修築を行った。数十年ののち蒲生秀實(蒲生君平)という者が『山陵志』を著し世に山陵修復を世に訴えた。秀實は宇都宮の人である。ただし修復は実現しなかった。戸田氏に至ってはじめて実現したのである。その功績は偉大なるものがある。
 この年(慶応元年)十二月,孝明天皇の勅にいわく「天皇陵の荒廃は年久しいものがある。なんじ忠至は山野を跋渉し調査研究し百餘所を修復した。その所在の真偽を誤ることなく,古い制度を失することもなかった。朕の代に永く忘れられていた制度を復興し,孝心を歴代に及ぼすことができた。朕の大いに喜ぶところである。なんじ忠至は朝廷と幕府のために深く考え,忠孝を兼ねて備える人物である。そこで鞍置の御馬を下賜するものである」と。
 慶応二年十二月孝明天皇が崩御。戸田氏は葬儀の差配を命じられた。同三年八月,幕府は朝廷に献納していた米三十万表を山城国のかわりに山城国の年貢を宛て,旗本の領地が山城国に在る者はこれを他へ移した。戸田氏は松平慶永(春嶽)と事務処理に貢献した。慶応三年冬,大将軍(徳川慶喜)は大政奉還を行い,京都は騒然とした。戸田氏は泉涌寺にかけつけ山陵を守護した。
 明治維新後参与などの職を歴任し,明治十六年三月三十日に従三位に進んだ。同日没。享年75であった。とくに天皇の思し召しがあり香典を賜った。某日東京谷中天王寺の墓所に葬った。
 戸田氏がいつも子の忠綱に訓戒していたのは「自分は朝廷に奉仕すること二十年にわたり,天皇のありがたい君恩に対し報いるすべを知らない。ただ山陵の一事については,歴代天皇の霊を慰め,臣下の忠誠をあきらかにすることができた。まして先帝(孝明天皇)の思し召しにより大喪に参与することができた。わたしが死ぬ時に遺骸を泉涌寺中に葬り,地下で先帝にお仕えできたら,これにまさる喜びはない。その時にはおまえから朝廷に懇願してほしい」と。
 忠綱は遺命に従い請願した。朝廷では戸田氏の至誠に感じ,歯と髪を後月輪東山陵(孝明天皇陵)の側に埋めることを特に許可した。忠綱は感激し,碑を建てて父の事績をあきらかにしようとした。その事が天皇に聞え金員を賜った。
 戸田氏は名は忠至,(宇都宮藩主)戸田家の庶流に生まれ,父忠舜は主計と称した。君はその第二子である。十歳になったばかりで木村某の養子になった。木村氏は幕府の旗本であるが,家禄は少なく貧乏で,日常の家事はみな自分でやらなければならなかった。その艱難辛苦はことばに尽くせないものがあった。養子になり十年,人格を磨き世情に通じるようになったのはまさにこの時である。
 宇都宮藩が山陵修復を実施していた時に天狗党の乱が起きた。幕府はその責任を追及し,宇都宮藩から三万石の領地を削り,藩主忠恕に隠居謹慎を命じた。戸田氏はこのことを憂い,公家に哀訴し,朝廷は山陵修復の功に免じ領地を返すように幕府を諭した。幕府は,もし山陵修復の功績をいうなら,削った三万石を忠至に与えればよいと反論した。戸田氏はこれを聞いて,山陵の事は宗家の功績であり,宗家の領地が削られるような事になれば,わたしは受けとるわけにはいかないと辞退した。朝廷はこの態度に感心し,幕府に削除分の復旧と忠恕の謹慎を許すことを厳命した。
 戸田氏は識見が深く寛容で,リーダーになれる人がらだった。時勢をよく見ぬき,危機に際しても道をあやまることはなかった。宇都宮藩では最初財務を担当し,学問と武術を盛り立て,藩士の気風を一新させた。ある時数日のあいだ裁判を担当し,百五六十人を釈放し,獄舎を空にしたことがあった。
 攘夷論が盛んなころ江戸市民は不安におびえていた。戸田氏は江戸の一豪商に,その拠点を宇都宮に移し,江戸には支店を置いて災難に備えたらと勧めた。ある人からその理由をたずねられ,宇都宮に拠点を移させたら何か事ある時に巨額の金をすぐ出させることができると答えた。そんなふうに先々を考えて手を打っていたのである。こういう人だからこそ多くの困難をものとせず不朽の事業を成功させることができたのである。
 陪臣から身を起こし朝廷の命令で大名になった。江戸幕府始まって二百餘年,戸田氏のほかには例を見ない。氏に三男三女が生まれた。長を忠綱といい家を嗣いだ。次を興朝といい,秋元氏を嗣いだ。【以下銘略】

【以下碑陰記】
父は死に臨み「私が死ねば先帝(孝明天皇)に地下でお仕えする」と語った。没後十年たち,このたび父の歯と髪を陵のかたわらに埋め,碑を立てて事績をあきらかにするものである。その事が朝廷に聞こえ,お手元金若干円を賜った。親戚故旧もまた資金を援助してくれた。この朝恩の大なることと旧誼の厚いことは,報謝するにも手だてがない。そこでこれらの経緯を碑の裏面に彫り,わが子孫が永久に忘れないようにしたい。また別に寄附者の名簿を作り,泉涌寺に奉納する次第である。