百僧供養碑 碑文の大意
 明治14年12月17日,頒暦社社長林立守が三十三間堂で百僧供養を修したのは,国家の安寧を祈り先祖の菩提をとむらうためである。豊臣氏が千僧供養を修して以来,この種の大規模な法会は久しく廃絶していた。こんにち林さんはその偉業を継承したわけで,りっぱなことである。豊臣氏は日本の富を集めて法会を行ったが,林さんは独力でなしとげた。功徳はいっそう大きなものがある。
 林さんは温雅で慈悲深い人となりである。はやくから現世ははかないものであると悟り,過去のしがらみを切ろうと思い,繁盛している家業を子に譲り,神仏を崇敬することに専念した。経典(観音経)に「慈眼視衆生福聚海無量」と記されている。林氏の崇敬はこの経文のとおりである。そのため家業は繁栄し国家とともに永遠に続くことであろう。
 供養の翌年(明治15年),頒暦は伊勢神宮の所管になり,林さんに暦の製作販売が委託された。(それを期に建碑が計画され?)わたし(妙法院門跡村田寂順)に供養の経緯を碑文に記してほしいと依頼された。よってここに林さんの志願を書き付ける次第である。