石崎先生堂射碑 碑文の大意
 弓は日本の得意技である。いくさ舟を洋上にひっくりかえし,扇のかなめを海上で射抜くような例は古くから知られている。以来名人が輩出したが,石崎先生のように弓術に専心し奥義をきわめた人は世にまれである。先生は名は長久,あざなは八郎,反求堂と号した。京都所司代麾下の与力戸田又右衛門の二男である。同じ所司代与力の石崎家を嗣いだ。
 先生は幼いころから聡明であった。ある日父に「おまえは武家に生まれたのだから武芸を修め家の名を揚げなければいけない。武術といってもいろいろあるが,どれを選ぶのか」と聞かれた。先生は熟考して「その答えはわたしの一生にかかわる問題だからちょっとお待ちください」と答えた。三日後「わたしは弓を選びます」と断言した。父は「弓はむずかしいぞ。おまえにできるかな」と言った。先生は「ほかの武術は練習相手が必要ですが,弓はひとりで修練できますから弓を選びます」と答えた。父はその言をよしとして弓の修練を許した。時に八歳になったばかりであった。
 それから星野某に弓を習い,学問は(古義堂)伊藤氏に師事した。父が亡くなったあとは,姉の夫梅垣氏に養われた。高槻藩士若林某が弓の名人として著名だったので入門した。高槻は京都から7里も離れているので,未明に起き夜に帰宅するという日課を3年続け,一日として怠けることがなかった。そうしてその奥義をきわめたのである。
 天保13(1842)年4月,初めて大仏堂(三十三間堂)で矢数を行った。この日はおよそ6100本を射て,9割くらいが通し矢となった。観客はチャンピオンの出現だとほめたたえた。しかし行司は実数を成績として採用せず,4457本を正式の結果としたので先生はがっかりした。
 安政元(1854)年4月,江戸へ行き天下の名人と交際した。江戸滞在中に江戸深川の三十三間堂で矢数千射を行い859本を通した。さらに三間を延長し百射し74本を通した。5間の延長を求められたがいったん辞退し,のち求めに応じ79本を通した。通し矢で距離を延長することは弓術家にとってはもっとも難事である。この結果により先生は日本総一という称号を得たのである。大名はこの名声を聞いて先生を招聘し,幕府の要職者からは旗本取り立ての申し出を受けた。先生はすべて固辞し帰京した。幕府と所司代は特別に褒賞を与えた。
 先生の門人教育は公平丁寧で,すぐれた者が輩出した。ある門人は腕に障碍がありうまく弓を扱えなかった。先生は努力を惜しまず矯正し,その至誠が通じ夢のお告げがあり,それを門人に教えたらうまくいったことがあった。みな先生の至誠は人間わざではないと評判した。先生は弓をみずから工夫して作り門人に授けたことあった。ある時は礼射に用い,また武射にも使え,並用弓と名づけられた。文武並用の意をこめた命名である。
 やがて時勢の変遷により砲術が流行し弓は次第に廃れてきた。先生はこの風潮を内心嘆き,年も五十の知命を超えたので隠居して,弓術を楽しみとした。
 明治15年,京都府が体育場を創設するにあたり,府知事北垣国道氏は先生を教員に招聘した。のち強勇社教員となり,その教えを受けた者は次第に増えてきた。弓術が再興し世に広く行われるようになったのは先生の功績である。まもなく『養気射大意』を著し同志に広めた。先生は,気を養い体を健康にするには弓術にまさるものはないと考えていた。これはユニークな説である。
 明治19年12月23日に先生は没した。文政2年2月11日に生まれ享年68。洛西龍安寺に葬られた。先生は温雅なひとがらで人に対してもものやわらかであった。しかし議論をする時には率直に意見を出し人に遠慮することはなかった。みなその徳に服したものである。先生は弓術において尋常ではない努力を尽し,遂に神技の域にまで到った。幼いころ父に誓ったことば実に真実となったのである。
 もし先生が那須与市と同時代に生まれていたら,歴史に名を残したことは与市に匹敵したであろう。ここに門人らが碑を三十三間堂のそばに建て,先生の行跡を末永く伝えるものである。 (大意作者曰く射術および通し矢の方法については作者の無知により誤記も少なからざるべし観者の寛恕を乞う)