佐藤文褒翁碑 碑文の大意
 亡父は名を文褒、字(あざな)を不及、通称を与兵衛という。出羽国飽海郡升川の生まれである。最初の妻は池田氏で六男四女があり、継室阿部氏には三女があった。亡父は文久二年八月二十九日に亡くなった。享年六十六。遺言により開墾した若林の地に葬り、門人たちが墓所を作り碑を建てた。
 亡父は若いころから開墾のことに専念し、土地の良否や水利を検討し、岩をくだき草木を払い、大きな成果をあげた。開墾をこばむ人があれば亡父はしんぼう強く説得した。人々の利益になることを自らのモットーとし、開拓した田地は数十町にのぼった。人々はこの恩恵を受けたのである。
 子であるわたし政養は亡父を追懐し、ここにその功績を記した碑を建てる。以後子孫の者は亡父の志を忘れず、けっして怠けることがあってはならない。