木戸孝允神道碑 碑文の大意
 木戸公(以下「公」)の名は孝允,通称は小五郎,号は松菊という。長州藩士和田正直の子で,母は猪口氏の出である。天保4年6月26日に生まれ,幼少のうちに同じ長州藩士桂孝古の養子となり木戸姓になった。弱年で吉田矩方(松陰)に師事した。幅広く勉強につとめ,世のためになりたいという志を持つようになった。そのうち江戸に留学し,斎藤善門(弥九郎)の門に入り剣道を学んだ。善道は公に門弟の監督をまかせるまでになり,次第に人に知られるようになった。
 安政年間に江戸にいた藩主毛利敬親は,文武の道を藩校有備館で修めるように藩士に命じ,公を教員に抜擢した。このころ,外国の船がたびたびに来航し貿易を求めた。幕府はその対応に失敗し,国内の動揺と外国の侮蔑をもたらした。公は藩主に武力を充実することを具申し,また広く傑出した人物と交際し将来に備えた。
 文久2年7月,藩主敬親は孝明天皇の勅命を受けて上洛した。公は先に京都へ入り朝廷に近づきいろいろと奔走した。翌文久3年4月,攘夷の詔勅が出され,これを奉じた長州藩は【5月に】馬関で外国船を砲撃した。幕府はうろたえ,詔勅に反して長州藩を非難した。そこで敬親は家老益田(右衛門介)を派遣し,天皇みずから攘夷の戦を指揮することを上奏した。三条実美らはこの意見に賛同し実現を計画した。幕府は驚き,京都守護職松平容保に命じ,実美ら攘夷派公家を謹慎させ,長州藩兵の禁裏警備をやめさせる措置をとった。実美らと長州藩士はみな京都を立ち去ったが,公ひとり京都にとどまり実美らと長州藩主の冤罪を訴えた。
 元治元年7月,長州藩士数千人が上洛した。公は軽挙妄動を戒めたが聞かれず,禁門の変が勃発した。長州藩は敗北し退却したが,公はひそかに京都に留まった。しかし捕まる危機にが迫ったので但馬に逃走した。8月に幕府は藩主父子の官位を剥奪し,徳川慶勝に命じ長州を攻撃した。長州藩では益田・福原・国司の家老3人に自害させ謝罪した。しかし幕府は許さず領地削減・藩主交替を武力をもって迫った。このため長州藩では防備を固め,公は長州へ戻り,藩主の命により木戸準一郎と姓名を変え,抜擢されて政務の梶とりを担った。公は大村永敏(益次郎)に軍事改革を担当させ,来たるべき対幕府戦に備えた。
 このころ土佐の人坂本直柔(龍馬)が馬関に来て薩長連合を勧めた。公は賛同しひそかに京都へ入り,薩摩藩の小松清廉(帯刀)・西郷隆盛・大久保利通と会見した。慶応2年6月に幕府軍が侵攻したが長州はこれを撃破した。10月に薩摩藩主島津忠義が家臣黒田清綱を修好使節として長州藩に派遣し,翌月長州から公が薩摩藩へ派遣され協力を約した。
 これに先だち将軍家茂が没し,一族の慶喜が将軍に就任し京都に滞在していた。12月に孝明天皇が没し今上天皇(明治天皇)が即位した。翌慶応3年8月,公は藩主敬親に具申し,京都に出兵し王政を復興することを勧め,長州藩兵が薩摩藩兵ととも上洛した。将軍徳川慶喜は時勢を察し政権を朝廷に返上することを願い出て許された。ここに王政が復活し,総裁・議定・参与の三職が新政権の中枢として設置され,毛利敬親や三条実美らも政権に参画した。松平容保らは,一連の事変は薩長の陰謀だと大坂にいた慶喜に迫り,薩長の罪をただすため兵を率いて京都へ侵攻した。明治元年正月,薩長の兵はこの軍を伏見で撃破し,慶喜は江戸へ遁走した。
 この月(慶応4年正月),公は新政府に召されて政府の一員となった。ついで総裁局顧問となり外交問題を担当した。おりから西宮を守っていた兵士が外国人と争い,ついで堺の守衛兵がフランス人を殺し,英国公使パークスが路上で襲われるという事件が起きた。公は意見書を書き「先帝(孝明天皇)は外国との交際を許された。今上天皇(明治天皇)もまた各国公使の謁見を受けている。新政府の外交方針は確固としたものでなければならない。いまや新政府のもとその方針を明らかに示さなければいけない」と言った。そこで五か条の御誓文が発布されることになったのである。
 4月に天皇は大阪に行幸し,親しく公に政治の要点を諮問し従四位下に叙せられた。陪臣が天皇に親しく接し四位をいただいたのは古今未曾有のことである。この時慶喜はすでに降伏し,東征大総督有栖川宮熾仁親王は江戸城に入った。しかし上野・下野・上総・下総の各国では叛乱が続き,奥羽諸藩は新政府に従うことを拒否していた。新政府の中には,江戸を退き箱根を楯として敵を迎え撃つべきだという意見もあったが,公はそれを「王者がひとたび気弱になれば兵の志気は失われ敗北する」として退けた。公は勅により江戸へ赴き,三条実美と協力し江戸の治安を回復させ,必要な策を講じたあと京都へ戻り報告した。
 上のことより前に遷都問題が起きた。公は東西の二首都を設け,日本中をまとめて行くことを主張。7月に天皇の命により江戸を東京と改めた。8月,北越の官軍の敗報がもたらされ,新政府では憂慮したが,公は平然として「薬は副作用が強いからこそ効能がある。いま賊軍が勢い盛んなのはこの副作用であり,心配することはない。心配なら私が戦場へ行き直接指導しましょう」と申し出たが許されなかった。  9月,明治天皇は東京へ巡行して公も同行した。その経路は徳川家の新領地駿府を通ることになっていた。側近は不測の事態を恐れ経路を変更したがったが,公は「その罪をもう許しているにもかかわらずその人を疑うことは王者のとるべき態度ではない」と,家達(徳川家当主)に宿所の守衛を命じた。駿府の旧幕臣は感激し服従した。東京では大久保利通・大村永敏とともに軍の統率に任じた。幕臣や諸藩の降伏を受け,その領地を削り,奥羽を七か国に分けるなどの措置は3人の協議による。
 戊辰戦争が終り,公は外国からの防衛に心を尽し,租税の5分の3を使い海陸軍を拡張することを主張した。その主張は採用されなかったが支持する者が多かった。翌明治2年の官制改革にあたり,激務から解放され,刀を天皇から賜り待詔院学士に任じられた。公は固辞しあらためて新政府に出仕するが常勤は免除され重大事のみに参画することになった。さらに従三位に叙せられ1800石を賜ることになった。公は国費が逼迫していることから辞退したが許されなかった。
 慶応2年の冬,長州では藩兵が叛乱を計画し騒然たる情勢だった。公はその時に長州に来あわせていた。叛乱軍は藩庁を包囲し公を出せと強迫した。公は馬関へ脱出し,同志と兵を挙げて叛乱軍を撃破した。長州から東京へ戻り参議を拝命した。最初は総裁局に属し内外の形勢を観察することにした。その結果,諸大名がそれぞれ異なる制度のもとで藩を支配している現状では,欧米の強国に対抗することはできないと考え,封建を廃し郡県に改める(大名を廃し中央から支配する県に代える)ことを企画し,ひそかに三条・岩倉の両首相にそのことを相談した。その趣旨は「むかしの大名は幕府に支配されていた。いまその幕府はなくなったのに,大名の領土だけそのままではいけない。また二三の強大な大名が権力を握り,統一された政府の運営ができない。一つの幕府を廃止して複数の幕府をかわりに作ったようなものである。その害は大きなものがある」ということである。両首相は影響の大きさを憂慮し簡単に賛成しなかった。公はそこで旧藩主毛利敬親に「毛利家は代々勤王の家でありまわりから尊敬されて,維新の大功績者である。そこで毛利家が率先して領地を国に納めれば,君臣の名文も立ち朝廷の威信もいよいよ強くなる。でなければむかし功績があっても何になろうか」と説得した。敬親はこの説得に動かされ,両首相および大久保利通に提案した。3人には大いに賛同した。そこで薩長土肥の4藩は版籍奉還の上表を連署して差しだし,他の大名もこれにならった。旧藩主を藩知事に任じたが世襲は許さなかった。旧藩主には年貢の十分の一を支給し華族に列した。これは名目をきちんとして,その上で実を取るという公の策に従ったものである。また薩長土の3藩は藩兵を朝廷に献納し,親軍を編成し兵部省に所属させた。
 このようにして日本は新政府のもとでいちおう統一国家となった。しかし「版籍奉還は有名無実で,親兵も旧勢力を基盤にしたものである。維新の果実はないに等しい」という者があった。公はこの言を聞くと,いまや機を失してならないと,閣議にはかり詔勅を発し262藩を廃し3府72県の設置を断行した。廃藩置県である。実に明治4年7月14日のことであった。  廃藩置県からほどなく,右大臣岩倉具視が特派全権大使として欧米諸国を視察に旅立った。公は副使となり,二年を経て帰国し,視察結果を論じて「制度文物は国によって異なるが,その興廃は立憲体制であるか否かによる。往年天皇は五か条の御誓文を発し国の向う所を明示されたが,将来これを発展させて憲法を作り立憲政体にすることが肝要である」と主張した。
 時に朝鮮が道理に背いて我が国に対した。出兵してこらしめるべきだと主張する者のいるなか,公は出兵に強く反対した。陸軍大将西郷隆盛と二三の大臣は意見がいれられないと辞職した。明治7年に公は文部卿を兼職することになった。この事件に先だち台湾で原住民が漂流した日本人を殺害することがあった。清国と交渉したが,清国では自国の過失と認めなかった。4月に台湾に攻め入ることに閣議で決したが,公は対応すべきことが多いから外国への出兵に断固反対した。そこで病気を理由に辞官を願い出た。天皇はそれまでの慰留し宮内省出仕に任じられ休暇を賜った。そういうわけで公は政権の中心からはずれたが,天皇の信頼はおとろえず,諸大臣からも頼られ,事あるごとに諮問を受けた。公もまた至誠憂国の心から知っていることは腹蔵なく答えた。
 ほどなく詔勅をもって政権に復帰することが求められた。公は病気が完治しないことを理由に辞退し,京都大阪で医者の治療を受けることを懇願した。この時大久保利通は清国に派遣され台湾出兵の講和と撤兵の始末をつけ帰国したところで,公といっしょに政権を運営しようと思い,大阪で対面し公の意見に賛同した。そこで天皇の命を出してもらい公をひっぱり出し,明治8年3月に公は再度参議に就任し,皇室の事も所管することになった。
 同年4月,地方官会議が開かれた時に公は議長となった。公いわく「廃藩以後,国内の富は東京に集中し,それ以外の地方の力は衰えるばかりである。これを救うには,府県で人材を育成し,民政にあたる官吏は土地の人間を採用し,村会区会を開き,次第に府県会を開くまでに至らなければならない」と。要するに公は漸進策を支持したのだが,どうしたら急速な改革ができるかということに議論が集中し,意見は合わなかった。地租改正局が設置されると,地方住民は集会を持ち官庁に放火し米蔵を破壊した。公は政令の苛酷なことが人民を困らせていると主張することで地租改正に反対した。
 このころ朝鮮が日本の軍艦を江華島で砲撃する事件が起きた。この事が天皇の前で議論された時,左大臣島津久光らは議論に賛同を得られないと辞職した。物情騒然たるなか公にも辞職を勧める者がいた。公は毅然として「困難な時に大臣が辞職していたら誰が政治を担当するのか」と答え,みずから朝鮮に赴き事に当たることを志願したが,病気により果たせなかった。翌年講和が成立したところで退隠を請い,内閣顧問の閑職に任じられた。
 (明治9年)4月,天皇は駒込の別荘に公を訪問した。同年夏,関東東北巡行に随伴し,宮内省出仕に補せられた。この職は天皇のお側に侍り,気づいたことを遠慮なく申し上げる役である。ある日天皇から国体について尋ねられた。公はかしこまって「むかし天皇はその権力を外戚である藤原氏に,その後武家にゆだねた。この事は国の中のことで皇統の連続に支障はなかった。いま世界の国々は富強を争っている。このときに国の中心が定まらなければ政権が外国に奪われとりかえしがつかないことになる。このことを防ぐのががわたしの責務と日々自分を叱咤しているところです」と答えた。天皇は緊張して傾聴した。
 明治10年1月,地租の減率が命じられ公はたいへん喜んだ。この月京都行幸に随伴したところ持病が再発した。2月薩摩では士族が西郷隆盛を擁して叛乱を起こした。公はこの報を聞き「余命いくばくもなく,畳の上で死ぬよりみずから兵を指揮して戦場に死にたい」と願ったが許されなかった。天皇は「わたしの側を一日も離れてはいけない」と公を諭した。公は感激し「用兵方略」という書を草しこれを献上した。そのうち賊軍は熊本城を包囲し官軍と対戦した。公は陸軍とは別に各県から兵を募集し遊撃隊をする,もし熊本城が陥落したら天皇みずから兵を率いて討伐することを建議した。
 4月になり公の病状が劇化した。天皇は見舞いに訪れた,5月25日に勲一等旭日大綬章を授けられた。翌日ついに亡くなった。享年45である。天皇は非常に悲しみお使いを使わし香典を送り,正二位の官位を追贈された。皇太后・皇后もまた香典を送られた。4日後に霊山に葬られた。天皇のお使いも列席した。とくに儀仗兵が棺を守り,高官数千人が葬送した。
 公は背が高く容貌はおだやかで雅量があった。とくに信義を重んじ恩に報い困った人に憐れみを注ぎ,古いつきあいを大切にした。公の推薦で高い地位についた人も多い。りっぱな庭を持った別荘を営み,仕事から帰ったあとは香を焚き茶をいれ,文人らと詩歌の会を開き,興にまかせて揮毫した。みなその墨跡をもらって家宝とした。政治家に向かない性格だと,官に就くことを強く辞退したが,こばみきれずに位に就いても長く在任せず,高官になることが人生の慶長を決定するなどとは思わなかった。天皇は公を追悼すること深く,とくに「維新の業と天皇親政に偉大な功績があり,まことに国の柱ともいうべき人物である」という趣旨の弔辞を寄せた。そのとおりである。その功績のなかで最大のものは,封建制を廃したこと,立憲政体に向かって尽力したこと,この両者である。のちに憲法が制定され,国論の一致を見,清国・ロシアに勝ち,欧米の強国と対抗できるようになったのも公の尽力がもたらしたものである。  夫人は岡部氏。子が無く妹の夫来原盛功の次男正次郎を養子として家を嗣がせた。翌年(明治11年)華族に列せられ,明治17年侯爵を授けられたが若死した。正次郎の兄孝正がそのあとを嗣いだ。現在は東宮侍従長である。明治20年京都行幸に際し勅使を墓へ遣わした。その後,憲法制定や国会開設にあたり,勅使が墓前に報告した。明治34年従一位を追贈された。天皇の温情はきわまりないものがある。
    【銘文略】