所在地 | 東山区三条通白川橋東入南側(東山ユースホステル前) |
位置座標 | 北緯35度00分33.2秒/東経135度46分54.7秒(世界測地系) |
建立年 | 2009年 |
建立者 | NPO法人京都龍馬会 |
寸 法 | 高120×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
| [北] |
| 坂本龍馬 妻お龍「結婚式場」跡 |
| [東] |
| 此付近 青蓮院塔頭金蔵寺跡 |
| [西] |
| 二〇〇九年九月 |
| 特定非営利活動法人 京都龍馬会 建之 |
| [南] |
| 父實 母エイ 結婚五十年紀念 |
| 寄贈者 高崎市 清水一郎 |
| 土地提供 東山ユースホステル |
| [副碑北] |
| 当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。 |
| 元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわ」 |
| ち内々の結婚式をしました。 |
| 龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1869年(明治32年)ごろに」 |
| 聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍(鞆)は1906年まで生きていました。 |
| 一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡」 |
| 慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は」 |
| 根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。」 |
| この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であっ」 |
| たためでしょう。その縁により金蔵寺住職智足院が仲人をつとめました。 |
| 当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。」 |
| しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走し」 |
| ます。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人」 |
| はながく別居夫婦だったのです。 |
| 当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。 |
| 歴史地理史学者 中村武生 |
調 査 | 2009年10月1日 |
備 考 | 副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト |