耳塚修営供養碑 碑文の大意
他国と戦争をするのは国の力を主張するためで、人を憎むからではない。中国ではむかし楚の国の人が敵の死骸を埋めて,勝利を誇る京観という塚をつくろうとしたが,楚国の王は,戦死者は自国のために戦ったのだからと許さなかった。この行いは立派な行為であるが,豊太閤(豊臣秀吉)の慈悲の心には及ばない。文禄慶長の朝鮮出兵で我が軍は連戦連勝し,諸将は敵の鼻を軍功の印に切り取った。豊太閤は敵の兵士が国のために戦死したことを憐れみ,鼻を京都大仏の前に埋め,塚を築き鼻塚と名づけ大供養を修した。時に慶長2年9月28日のことである。太閤の敵味方を差別せず慈悲を垂れたのは,赤十字社の精神を三百年前に発現したといってもよいであろう。この塚はその後耳塚と呼ばれるようになった。年月がたち豊臣家は亡びたが塚は残り,京都の名物として豊公をしのぶ人々を引き寄せていた。
 耳塚の地はもと妙法院に属していたので,同寺が法事を執行していたが,世は移り変わりひさしく荒廃にまかせていた。ことし(明治31年)は豊公の三百年忌にあたり,ゆかりの武将らの子孫が阿弥陀ヶ峰の墓を修理し,三百年の遠忌を行うことになった。だがその事業には耳塚のことは含まれていない。方広寺の泰良権大僧正(碑文の撰者村田寂順の弟)は,方広寺大仏殿と耳塚は同じ豊公の縁で結ばれているので,塚を修理して法事を営むことを望んだ。わたし(碑文の撰者村田寂順)も妙法院がかつて豊国廟を管理していた縁でそのことを希望し,ともに尽力した。ここに広く資財を募り明治31年1月3日に耳塚修理を起工し,3月20日に竣工した。
 この塚はわが国の勢力拡張の象徴であり,豊公の徳の遺物である。朝鮮とわが国とは相助けて発展していくべき立場にあり,他の国に先がけてその独立を助け,日清戦争を戦い,友誼をまっとうした経過がある。昔は豊公がすでに交戦の時でありながら実行していたのである。ここに塚を補修し碑を建てることで,両国の友好と豊公の偉業を記念するものである。