七卿西竄紀念碑 碑文の大意 |
徳川幕府の末期,三条実美公ほか維新の大業を志していた公家は尊王攘夷を唱え,その声にこたえてあちこちで蹶起するものがいた。幕府はこれを恐れてなんとか阻止しようとしていた。 文久3(1863)年8月18日,一夜のうちに朝廷の風向きが変り,七人は参内を禁止され,御所のまわりの四門は厳重な警備下に置かれた。勤王の志士と,三条実美公配下の親兵数千名は,クーデターの報に接し,三条公邸に駆けつけた。三条公はこれらの軍勢を率いて関白鷹司邸へ赴いた。三条西季知,東久世通禧,壬生基修,四条隆謌,錦小路頼徳,沢宣嘉らの公卿も続々と鷹司邸に集まってきた。関白邸内は混雑し,いろいろな噂が飛びかった。互いに戦闘準備を行い,何があってもおかしくない状況になった。三条公らはこれを心配し,妙法院へ移った。したがった親兵はなお千人以上いた。 夜も更け,三条公らは追従してきた親兵らを謝絶し,志士数十人と蓑笠とわらじばきの姿で,雨をついて西のかた長州をめざして亡命の旅に出発した。このとき文久3年8月19日,今をさることもう五十年も前のことである。 のちに長州(長門国)と筑前国を転々とし,苦労しながら勤王倒幕の策を練っていた。数年の内に政情が一変し,朝廷は公等を京都へ召還し,公等の政治生命はふたたびよみがえり,ついに現在の日本の姿をもたらすことができた。しかし七卿はいま一人もこの世にある者はなく,従った志士もわずかに数人を残すだけである。 最近,有志が相談し妙法院に記念碑を建てることになり,わたし(筆者股野琢)に碑文を依頼した。わたし自身そのころ奔走していたので,当時を思い出して感慨深いものがある。 |