京都市指定・登録文化財−無形民俗


かもくらべうま
賀茂競馬
5月5日に賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行なわれる競馬の行事で、寛治7年(1093)5月5日にはじまると伝えられる。中世には賀茂社の年中行事として定着しており、競馬料所と呼ばれている荘園20箇所が費用を負担し、20頭の馬が左右に分かれて10番の競馬を行なうのが通例となっていた。現在は2頭ずつ5番おこなわれる。

ふながたまんとうろうおくりび
船形万燈籠送り火
五山送り火のひとつ。8月16日夜、西賀茂船山において行なわれる。近世前期の地誌『案内者』(寛文2年刊)にはすでに船形が記されており、少なくとも江戸前期には行なわれていたことがわかる。なお、船形万燈籠送り火は、西賀茂鎮守庵町、総門口町、今原町の3ケ町の旧家で構成され、各世帯の長男が17歳になると、まず若中に加入し、以後中老、年寄と階梯を上がるという座的組織を有する。

ひだりだいもんじおくりび
左大文字送り火
五山送り火のひとつ。8月16日夜、金閣寺北側の大文字山にて行なわれる。寛文5年(1665)刊の『扶桑京華志』に、左大文字の記載があり、少なくとも江戸前期には行なわれていたことがわかる。16日の午後7時頃、菩提寺である法音寺で門火が焚かれ、先祖供養の法要がおこなわれる。その火を松明に移し変え、行列を組み山上へと向かい、送り火が点火される。

くもがはたまつあげ
雲ケ畑松上げ
同行事は、雲ケ畑の出谷町と中畑町の2箇所で、愛宕山への献灯行事として行なわれる。点火当日、昼間より山の上へ資材を運び、100束余の真割木の松明を3メートル四方の字の形をした櫓にくくりつける。夜になって、松明に点火された櫓を直立させる。市域の他の柱松行事とは異なった内容・形態であり、加えて、自体は毎年異なったものが選ばれ、点火まで秘密にされるということも特色のひとつである。

からすすもう
烏相撲
9月9日、賀茂別雷神社(上賀茂神社)境内において、重陽の神事の後、東の祝方と西の禰宜方とに分かれて行なわれる。相撲は地取や烏鳴きの儀が行なわれた後に、氏子域の小学生(高学年)により執り行われる。古くは、宮廷の年中行事として行なわれていた相撲に由来すると伝えられ、中世には、賀茂六郷のうち、大宮・小山・小野・岡本の各郷が奉仕した。

かみがももみじおんど
上賀茂紅葉音頭
9月8日夜、賀茂別雷神社(上賀茂神社)鳥居前で踊られるもので、江戸時代に庶民の間で流行した踊りや音頭に起源を持ち、はやり歌や歌舞伎の台詞などから逐次作詞され、節をつけてきたと考えられている。楽器を用いず、音頭取りの音頭に合わせて、萩の葉で葺いた屋台の回りを浴衣の男性と、三幅前垂に襷がけ、手拭で姉さんかぶりをした女性たちが輪になって踊る。

かみがもさんやれ
上賀茂さんやれ
旧上賀茂村の7地区(上記表記)で、すぐき漬け作業も終った2月後半、成人儀礼の要素の強いさんやれ行事がおこなわれる。15歳に達した男子(アガリ)を主役として、同地域のアガリに至らない男子全員が、太鼓や鉦で囃子ながら、町内、山の神、大田神社、上賀茂神社に参拝するもので、囃子は室町時代の風流拍子物(ふりゅうはやしもの)の遺風を伝える。

おおたじんじゃのみこかぐら
大田神社の巫女神楽
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂外摂社のひとつである大田神社でおこなわれる巫女神楽で、毎月10日の夜のほか、節分や2月24日のさんやれの際にも行なわれる。この神楽の奉仕は、大田神社の刀禰の家に限られ、銅拍子、鼓、締太鼓の奏者と巫女の4人で構成される。巫女神楽そのものは素朴なもので、京都で行なわれた古い巫女舞の芸態や特色を知るうえで貴重なものである。

にしのきょうずいきみこし
西ノ京瑞饋神輿
北野天満宮の大祭(北野祭)のなかで行なわれる。瑞饋をはじめとする農作物で飾り立てた神輿が、10月1日の神幸祭(しんこうさい)に北野天満宮から西ノ京輿ケ岡町にある御旅所に巡幸し、10月4日の還幸祭に本社へ還幸するもの。この神輿は、北野社の社領であった西之京六保の供献に由来し、神輿の形態になったのは江戸時代初期と考えられる。

せんぼんえんまどうだいねんぶつきょうげん
千本えんま堂大念仏狂言
千本えんま堂大念仏狂言は、引接寺境内の舞台にて演じられる。鰐口、太鼓、笛で囃すのは他の狂言と同じだが、ほとんどの演目が無言劇でないことや、壬生や嵯峨にはない伝承演目が伝わる点に特徴がある。特に千秋楽に演じられる「千人切」は、ここ独自の演目で、「千人切」の後、観衆が次々と厄除けのまじないとして、錫杖で首をなでてもらい、矢を受けて持ち帰る慣習などは、庶民信仰に支えられてきた同狂言を端的に示すものである。

けまり
蹴鞠
蹴鞠は中国から伝来し、平安時代中期以降、公家の間で独自に発達したものだが、その後、儀礼、形態、作法、装束などが整備されていき、少なくとも江戸時代初期までには今日の形態が完成したといわれる。形態は多様であるが、蹴鞠(まりがかり)を行なう場所の四隅に樹木を植える鞠懸や、鞠を渡されると蹴り上げて次の人に渡すという三足の原則、鞠の回転や蹴り上げる高さに気を配る点などが基本的なものである。

くらまたけきりえ
鞍馬竹伐り会
鞍馬竹伐り会は、鞍馬寺本堂で修せられる蓮華会の法会に付随して、6月20日に、本堂前にて行なわれる。
 大蛇に見立てた、根付きの細い竹(雌竹)と根のない太い竹(雄竹)の2種の竹4本を、鞍馬の住民である大惣(おおぞう)仲間の人々が、それぞれ近江座と丹波座に分かれて、三段に断ち伐る遅速を競い、豊凶を占うもので、山伏の験競べ的要素と年占的な要素を併せ持つ。

だいもんじおくりび
大文字送り火
五山送り火のひとつ。8月16日に如意ケ嶽にて行なわれる。由来は、空海に託する説をはじめ、足利義政の発意による説、江戸時代の近衛信尹(のぶただ)の筆画によるものと様々だが、現在のような形態となったのは、近世初頭のことである。当日は、山上の弘法大師堂で燈明がともされ、般若心経があげられた後、この燈明から親火がとられ、一斉に点火される。

まつがさきみょうほうおくりび
松ケ崎妙法送り火
五山送り火のひとつ。8月16日に松ケ崎西山(万燈籠山)に「妙」、松ケ崎東山(大黒天山)に「法」の字が点火される。由来は、湧泉寺寺伝によると、同寺が徳治2年(1307)日像の教化によって天台宗から法華宗に改宗した際、日像が西山に「妙」の字を書いて点火したものであると伝え、「法」は湧泉寺(ゆうせんじ)の末寺大妙寺ニ祖日良が江戸時代初期に東山に書いたことが始まりと伝える。なお送り火の後、湧泉寺にて、題目踊りとさし踊りが踊られる。

はなせまつあげ
花脊松上げ
全国的に分布する柱松行事のひとつ。檜製の約20メートルの丸太の先(トロギという)に、逆円錐形のモジ(カサともいう)と称する点火資材を取り付けたものを、谷あいを流れる上桂川の河原(トロギバと称する)に立てる。夜になると、保存会会員がトロギバに集まり、上げ松をトロギの先端にあるモジめがけて投げ上げ、点火させる。その後、惣堂で総愛宕講が行なわれ、深夜まで盆踊りが続く。

ひろがわらまつあげ
広河原松上げ
柱松行事のひとつ。内容・形態などは花脊松上げと同様。点火終了後、伊勢音頭を唄いながら観音堂に練り込み、そこでヤッサコサイ等の芸能が行われる。なお、お産や死の忌がかかる者や、他所の者は、トロギを立てるトロギバ内での作業等に参加できない点は、他の柱松行事と同様である。

きたしらかわたかもりごく
北白川高盛御供
10月7日早朝、北白川天満宮に神饌を奉納する行事。神饌は、カワラケの皿に、味噌をつなぎとした小芋、大根なます、きざみ鯣(するめ)をそれぞれ円錐形に高く盛ったもの、高く盛りつけられた白飯を注連縄で縛った盛相(もっそう)、さらに白豆腐の上に神箸や飛魚の干物やシイラを載せたものである。こうした神饌を作るのは、袴姿の男性だが、当日は、黒木綿の着物に紅の三幅前垂を腰に巻いた白川女が、神饌を頭上運搬で北白川天満宮まで行列をする。神饌供献の古い形態を残す習俗である。

じだいまつりふうぞくぎょうれつ
時代祭風俗行列
平安遷都1100年記念として明治28年に平安神宮が造営され、その記念祭の一環として、平安時代から明治時代までの文物風俗を模した風俗行列が、京都御所から平安神宮に至るコースで行なわれた。翌明治29年からは、遷都の日にあたる10月22日に固定し、以後規模を大きくしながらも、新しい都市祭礼ではあるが、全市民的な行事として定着し今日に至る。

くらまひまつり
鞍馬火祭
由岐神社の祭礼。もとは剣鉾や神輿を中心としたものであったが、松明の巨大化と共に、次第に火が祭礼の中心的な役割となったのは、江戸末から明治にかけてのことと考えられる。大惣仲間以下七仲間の祭礼組織を持ち、松明の製作過程、各家のしつらえや行列衣装などに特色がある。

まつがさきだいもくおどり・さしおどり
松ケ崎題目踊・さし踊
松ケ崎の湧泉寺の境内で行なわれる盆踊り。題目踊は、徳治元年(1306)、松ケ崎住民がこぞって法華の信者となったことに歓喜した湧泉寺住職実眼が歓喜のあまり踊躍したのに始まると伝える。男女が団扇を手に、太鼓のリズムに合わせて「妙法」「蓮華経」「七遍返し」「難陀(なんだ)」といった音頭を輪になって踊るもので、中世芸能の面影を伝える。題目踊りの後、近世になって流行った盆踊りである、さし踊りが踊られる。

てっせんりゅうしらかわおどり
鉄仙流白川踊
鉄仙流白川踊は、かつては8月16日に北白川天満宮で、また8月23日の地蔵盆には薬師堂で行なわれていたが、現在では8月15日に、北白川小学校校庭で行なわれる。鉄仙流は、道念の流れを引き、寛政年間(1789〜1801)頃を最盛期とした盆踊り。紋付の羽織を着た音頭取りの音頭にあわせて、浴衣を着た老若男女が輪になって踊るもので、楽器類は使用しない。

しゅうがくいんだいにちおどり・もみじおんど
修学院大日踊・紅葉音頭
8月27日の大日盆の夜、修学院離宮前にて行なわれる念仏踊り。踊り前に、松明をつけ、提灯の前に列座し、三方に盃を載せ、給仕から酒を受けて乾杯する。この後、踊り手が団扇を手にし、切子灯籠1基を竹で吊るした屋台の回りで踊る。

おおはらはっさくおどり
大原八朔踊
9月1日夜、大原の江文(えぶみ)神社にて、大原8ケ町のイチバンジョウ、ニバンジョウに率いられた、宮座に加入早々の15,6歳の青年によって踊られる。高張提灯を手に江文神社へ向かう途中、石段下の伊勢音頭にはじまり、江文神社に至ってションガイナが歌われる。続いて各町からの音頭取りが、四方に斎竹を立て、注連縄を張った屋台に上り、道念踊りが輪になって踊られる。

やせしゃめんちおどり
八瀬赦免地踊
10月10日、秋元神社の祭に行われる芸能。宝永4年(1707)に山門と八瀬村との間に山界相論が起こった際、時の老中秋元但馬守が八瀬村に有利な裁定を行なったことから、彼を祭神とする祠を建て祭を行なったと伝える。この踊りは、別名燈籠踊りともいわれ、動物などの図柄を透かし彫りにして作られたもので、現在4つの花宿から各2基出される。当日はこの切子燈籠を頭に載せた女装の男性らが行列を組み秋元神社に向かう。踊りと踊りの間に俄狂言をはさむ点や、切子燈籠に室町時代の風流踊りの面影を残す。

くたみやのまちまつあげ
久多宮の町松上げ
柱松行事のひとつ。地元ではチャチャンコと称し、愛宕山への献灯行事。柱松の頂上部に付けられた逆円錐形の点火資材めがけて、鉦や太鼓の鳴る中で手松明を投げ上げる。
久多宮の町松上げは、地蔵盆の行事として、京都市北部から若狭にかけて分布する、愛宕山との関係の深い柱松行事である。

いわくらひまつり
岩倉火祭
石座神社には、旧岩倉6ケ町(上蔵(あぐら)町、下在地町、忠在地町、中在地町、西河原町、村松町)で構成される宮座(祭祀組織)があり、岩倉火祭はこの宮座行事の一環として行なわれる。祭の中心をなす2基の大松明はの製作は、中在地町と忠在地町の2町があたる。祭礼当日は、各町毎のトウヤ宅から、小松明、鉾、御供を持って石座神社に集まり、献饌、神事の後、境内の仮屋前に置かれた大松明が点火される。

いちはらはもはおどり・てっせん
市原ハモハ踊・鉄扇
静市市原の盆踊り。かつては近くの山で送り火が点火された後で行なわれていた。念仏踊りであるハモハ踊と、近世に流行した盆踊りである鉄扇とで構成される。ハモハ踊は、締太鼓と鉦のゆったりとしたリズムに合わせて踊るのに対して、鉄扇は口説き調の音頭で楽器は用いない。

いちじょうじてっせん
一乗寺鉄扇
8月31日夜、一乗寺八大神社境内において、「八朔踊」や「豊年踊」の名で踊られる盆踊り。中央に櫓を組み、音頭取りが2組に分かれ、各々の音頭に合わせて、男女が輪踊りする。楽器は用いず、「(何々)え」と、「え」を句尾とした口説き調の音頭である。以前は青年団が主催し、8月15日、16日、23日、27日にも他村からの踊り手も交え、一晩中踊る活況であったという。さらに、『日次紀事』に記される「一乗寺の念仏踊」も、地元では「ハミダ踊り」の名で大正期ままでは伝承されていた。

ひろがわらやっさこさい
広河原ヤッサコサイ
広河原地区の盆踊り。現在は8月17日の観音講と24日の松上げの日に、観音堂にて行なわれる。踊り手の女性たちは、浴衣に三幅前垂をつけ下駄を履き、男性たちは手甲に半纏、タチカケといった山行の服装で踊る。踊りは楽器を必要とせず、堂の床の上で踏み鳴らす下駄のリズムに合わせて、即興的な替歌を織り交ぜながら、男女の掛け合いの形式で進行するという、古い形態をとどめたものである。

いちじょうじはちだいじんじゃのけんほこさし
一乗寺八大神社の剣鉾差し
祭礼の神輿渡御の先導に鉾が出されるのは、京都独自の祭礼習俗。現在みられる鉾は、鉾棹に金属製の剣と飾、額そして鈴をつけた形状のもので、一般に剣鉾といわれ、室町期にはほぼ基本形がかたまったと考えられる。剣鉾は、鉾差しが腰につけた差袋に鉾を立て、鉾を前後に振って鈴を鳴らしながら歩く。また、鉾の調進が、氏子圏内の住民の奉仕という形をとることが特徴で、一乗寺には、「菊鉾」「柏鉾」「龍鉾」の3基が伝承されている。

かみたかのねんぶつくようおどり
上高野念仏供養踊
もともと集落内のカドなどで行なわれ、最後にサトンド(祟道神社御旅所)で踊っていたが、現在は宝幢寺境内などで行なわれる。位牌台を中心にして、宝幢寺の住職が回向を行い、口上役の合図と共に踊りが始まる。囃子は男性が勤め、太鼓1人、鉦4人が位牌台に向かって並ぶ。踊り手は女性が中心で、浴衣に三幅前垂、赤の襷、白足袋、赤緒草履という姿に団扇を持ち、念仏を唱えつつゆったりと踊る。

きのあたごじんじゃのえぼしぎ
木野愛宕神社の烏帽子着
木野愛宕神社の宮座行事のひとつ。烏帽子着は男子の成人儀礼として、京郊村落においては中世末期には広く行なわれていた。愛宕神社の宮座は、旧村全戸加入の村座であり、各戸は、西座・東座の2座のどちらかに所属し、毎年それぞれの座で当番が決まり行事を執行してきた。
 祭は、午後7時半頃に始まる。奉幣・献饌、祝詞奏上の後、狂言師茂山千五郎家による「翁舞」の奉納がある。その後、盃事が行なわれる。饗応の酌人役にあたるのが、当年16歳となった長男であり、それをハカマアゲ(袴上げ)と呼び、裃姿の正装で勤める。

くたのやまのかみ・おゆみ
久多の山の神・お弓
久多志古淵神社の氏子で構成される宮座によって、毎年1月3日に同社に合祀されている山ノ神の祭りとして行われてきたものである。『岡田家文書』の正徳6年(1716)の覚書に山の神講の記載があり、少なくとも江戸時代中頃には存在していた行事であることが確認できる。行事次第は、当日朝、宮座の役職者が集まり、弓矢と鏑、そして宝剣と鯛を作る。山の神小祠に対して御幣と神饌を供え、祝詞を奏上する。この時神饌のひとつとして、米と糀、水で醸した一夜酒を笹の葉に盛ったものがある。この後、拝殿前の広場で、その年の恵方と的に向かって矢

おおはらうえのちょうおこない・おゆみ
大原上野町おこない・お弓
上野町の村堂である観音堂(浄楽堂ともいう)にておこなわれるオコナイ行事で、若者年齢集団が執り行う。この日、早朝よりトンドを行い、昼頃には全員揃って観音堂に入り、「サイコロ転がし」を行う。これは、椀に盛られたサイコロ状の大根の角切りを少しずつ取り出して転がせるもので、もともとの修正会の名残と伝えられるものである。その後、トンドを行った田に、あらかじめ作りつけておいた的に向かって弓を引く。なお、同地区には「上野町えぼし帳」が残されており、元禄4年(1691)から安永3年(1774)に至る座への加入の実態が知れ

しんせんえんきょうげん
神泉苑狂言
明治36年、壬生狂言衆と地元の三条台若中とが協力して神泉苑大念仏狂言講社を結成し、神泉苑に狂言堂を新設して、旧来からの狂言の伝承にあたってきた。内容・形態とも壬生狂言とほぼ同じで、鰐口、笛、太鼓の囃子に合わせた身振りによる無言劇であり、演目は30番である。面、衣装その他の道具類は、すべて神泉苑大念仏狂言講社が独自に所有するもの。

おけらまいり
おけらまいり
おけらまいりは、12月31日の夜から、元日の早朝にかけて、八坂神社において「おけら火」が授与されることで、広く市民に親しまれてきた行事。おけらとは、キク科の多年生草本で、根茎を乾燥させ、外皮を取り除いたものを使用する。おけらは、焼くと強い匂いを発することから、魔除けとして、年頭の招福除災の行事に使用された。

こやまのやまのかみ
小山の山の神
山科区小山地区に伝わる行事。もともと正月9日に行われ、村境にかける勧請縄掛け行事であったと考えられる。小山二ノ講は、旧小山村以来の旧家で構成される。当日早朝、当番宅に講員が集い、長さ約13メートルに及ぶヘビと称する勧請縄を作る。目にはみかんを用い、大きく開けた口を赤く着色し、割竹を削って輪にしたものに樒、榊、御幣を付けた足を13作り、そのうち12を胴体に吊り下げる。午後に地区内を担いで回った後、音羽川沿いの木に掛け、13個目の足は音羽川の水源地とされる場所まで持ち運び、木の枝に吊り下げて終わる。 

ばいりんじじじばいこう
梅林寺ジジバイ講
旧梅小路村のオコナイ行事で、梅林寺の大日堂で行なわれる。ジジバイ講は、旧梅小路村の旧家の戸主層で構成される。梅林寺住職が読経の途中、講員に榊の枝を回し、それを講員が一枚ずつ取っていく。その後、年長者による「ジジバイ、ジジバイ講」という掛け声とともに、全員が長さ20センチほどの青竹の束を持って、前に置かれた長さ3メートル余りの丸太を勢いよく叩く。かつては、行事終了後、梅林寺書院に集い、各自椀を持参し、その年最初の汁講を行なったという。

さがおたいまつ
嵯峨お松明
3月15日夜に、嵯峨静凉寺(釈迦堂)境内で行なわれる柱松行事で、高さ約7メートルの逆三角錐の松明が3基燃やされる。旧暦の2月15日は釈迦入滅の日として、各地で涅槃会が催されるが、この行事も涅槃会と火祭行事が結びついた例のひとつであり、釈迦の荼毘を再現すると説明される。同時に、3基の松明を早稲、中稲、晩稲に擬し、その火勢の強弱によりその年の豊凶を占うともいう

とりいがたたいまつおくりび
鳥居形松明送り火
五山送り火のひとつ。8月16日夜、嵯峨鳥居本の曼荼羅山にて行なわれる。由来は弘法大師が石仏千躰を刻んだ際の開眼供養として点火したというが、記録類からは、江戸時代中期以降に始まったと思われる。当日夕刻、松明をあぶってジンをふかしながら燃え上がらない状態に保ち、点火合図の太鼓が鳴ると、皆一斉に松明を持って火床に走り寄り点火するという形態が特色。

うずまさうしまつり
太秦牛祭
太秦広隆寺境内大避神社の祭礼。神面をつけた摩多羅神が牛に乗り、風流の行列を従えて、広隆寺の客殿の庭から寺の周辺を練り歩き、薬師堂前に設けられた祭壇を3周し、壇上にて摩多羅神が祭文を読み上げる。参詣者は、祭文読誦の間、野次をとばすなど、行事の進行を妨げる。読み終わると四天王とともに堂内に突入するが、昔は、厄をのがれるといって、群集が追って堂内に入りその面を取り上げたという。

きやりおんど
木遣音頭
棟上をはじめ、地曳、清鉋、立柱などの際の労働歌。江戸時代には、「聚楽」「川東」「六条」「城下」などの大工組が、それぞれ特色ある木遣音頭を伝えていたとされるが、現在では、二条城界隈の「城下」地域の大工衆を中心にした番匠保存会が、その保存・継承に努めている。

さいいんかすがじんじゃのけんほこさし
西院春日神社の剣鉾差し
春日神社の氏子圏である旧西院村には、現在5つの鉾仲間が存在し、春日社祭礼の神輿渡御の際に差されている。それぞれの鉾仲間には鉾差しの衣装等が持回りで保存されており、差し手は一乗寺や鹿ケ谷の方から決まった人が来るという信頼関係で維持されており、祭礼終了後には、トウヤが接待するという関係が今日まで保たれている。

さがまつりのけんほこさし
嵯峨祭の剣鉾差し
愛宕・野々宮両神社の祭礼は嵯峨祭と呼ばれ、かつては4月中亥の日に行なわれていた。江戸時代前期の「嵯峨祭絵巻」には神輿の前に3基の剣鉾が描かれており、すでにこの頃には剣鉾差しが行なわれていた。現在剣鉾は5本あり、大門町が「龍鉾」、中院町が「麒麟鉾」、鳥居本町が「沢瀉(おもだか)鉾」、小淵・井頭・西井頭の各町で「菊鉾」、龍門・角倉・毘沙門の各町で「琵琶(牡丹)鉾」を出す。

うめがはたひらおかはちまんぐうのけんほこさし
梅ケ畑平岡八幡宮の剣鉾差し
平岡八幡宮の還幸祭に行なわれる剣鉾差し。以前は、神輿渡御に先立ち、剣鉾差しが行なわれていたが、現在は、神社境内で差されるのみとなっている。氏子各地区から1基づつ、計4基の剣鉾が出る。また、毎年交代で勤める「鉾宿」の制度も存続しており、古くなった鉾は、留守鉾と称して、鉾宿の玄関先に立てている。

ひらおかはちまんぐうのさんやくすもう
平岡八幡宮の三役相撲
平岡八幡宮は、梅ケ畑一帯の産土神として信仰されてきた。同社の例祭には、子供による神事相撲が「三役相撲」の名称で伝承されている。すでに江戸前期にはこの日に神事相撲があったことが、『日次紀事』の8月15日条で確認できる。現在では、当日朝の神事の後、拝殿前に設けられた土俵で相撲が取られる。8歳の子供(以前は長男のみ)が務める三役と、20歳前後の青年による力士との立ち合いで取られる。この取り組みは神の加護を受けた子供が必ず勝つことになっており、京郊村落に伝承される代表的な神事相撲。

まつおたいしゃおんださい
松尾大社御田祭
松尾大社にて行なわれるお田植祭り。行事の主役は、現西京区下津林、松尾、嵐山の3地区から1人づつ選ばれる12歳前後の植女。壮夫支えられた植女が早苗を持ち、腕を水平に伸ばし、行列を組んで拝殿を3周するというもの。すでに鎌倉初期以降の記録類に散見され、なかでも「御田代神事図」(万治2年)には、両手に早苗を持ち、笠をかぶった植女の姿などが描かれており、植女を中心とする御田祭の形態が知れる。

ふじのもりじんじゃかけうま
藤森神社駈馬
5月5日の藤森祭に、藤森神社の境内参道で行なわれる駈馬行事。単なる早馬ではなく、江戸時代に流行した曲芸的な馬術である曲馬の影響を受けたものとも考えられ、祝意を表して寿の字を書く「一字書き」をはじめ、「手綱くぐり」「藤下り」「立乗り」などの乗馬の業を伴う点に特徴がある。

ひのはだかおどり
日野裸踊
日野の法界寺では、元日から続く法会(修正会)が終了する、いわゆる結願の日の夜、阿弥陀堂の縁側にて褌姿の男性が両手を挙げ、「ちょうらい(頂礼)、ちょうらい」と掛け声を発しながら背と背を激しくぶつけ合う裸踊りが行なわれる。行事の終了後、柳などの木に挟んだ牛王宝印の祈祷札が配られる。

みすのきょかさい
三栖の炬火祭
三栖の炬火祭は、三栖神社の若中で構成される炬火会によって、毎年三栖神社の神幸祭に行なわれてきたもので、地方の記録によれば、少なくとも元禄13年(1700)には行なわれていたことが判っている。戦後一時中断されるも、平成元年に再興された。
 10月12日の神幸祭当日、神輿を先導する大松明(直径2メートル弱、高さ5メートル余、重量1トン以上)が三栖神社境内に立てられる。夜になり、神社を出発した神幸列は、竹田街道まで東進する。そこで大松明に点火され、竹田街道を北上、濠川にかかる京橋上に立てられた後、消火される。
ごこうぐうさいれいしし

御香宮祭礼獅々
御香宮の祭礼は,江戸時代を通じて旧暦の9月9日の重陽におこなわれていたが,現在は10月の第2日曜日を神幸祭本日として,氏子地域への神輿の渡御がある。御香宮祭礼獅々は,神輿の先払いのための行道獅々の系譜をひくもので,威勢のよい掛け声とともに,120名程の若者が旧伏見城下を疾走する勇壮な練り物である。特に芸を演じるというわけではなく,要所要所において,口をぱくぱくさせる邪気払いの所作が基本であり,現在では,重厚な獅々頭を担いで疾走する勇壮さが見物となっている。


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