京都市指定・登録文化財−美術工芸




しほんちゃくしょくけいらくつきなみふうぞくずせんめんながし ろっきょくびょうぶ 
紙本著色京洛月次風俗図扇面流 6曲屏風  
波や芦,千鳥の群等を描いた背地画面に24面の扇面を添付する。23面の扇面には,1月から6月にかけての年中行事や京洛名所が描かれる。各扇面の朱文壷形「元信」印等によって,狩野元信工房による室町時代末期の制作と判断される。風俗画としても貴重。

おうかていしょうへきが まるやまおうきょひつ
桜下亭障壁画  円山応挙筆 
本障壁画は,元来,東本願寺岐阜別院のもの。素地や金地に水墨で,稚松・竹雀・白梅などを描く。寛政3年(1791),応挙59歳の時の作で,減筆体による晩年の円熟した作風が窺える。

せいしょうでんこしょいんしょうへきが ごしゅんひつ
晟章殿小書院障壁画 呉春筆
刈田から倉入れまでの四季の耕作の様子が,寛政9年(1797)頃に四条派の祖・呉春(1752〜1811)によって描かれたもの。

ときよしきょうき
時慶卿記
近世初期の公家西洞院時慶(1552〜1639)の自筆日記で,時慶35歳の天正19年(1591)から没する半年前の寛永16年(1639)6月14日までの内のおよそ19年間分が現存している。歌会の記事が多く見られるのを始め,豊臣,徳川間の緊張関係が続く中での禁裏,公家の慌しい様子が記されているだけでなく,当時の庶民生活の一端までも活写している。

すみのくらけもんじょ
角倉家文書
本文書は,角倉了以の子素庵の時代を中心とする朱印船貿易関係のもの。京の豪商の朱印船貿易及び徳川幕府の鎖国令によりその貿易が終焉を迎えた当時の状況が窺える。

にわとりほこちょうもんじょ
鶏鉾町文書
祗園祭の鉾町の一つである鶏鉾町に伝わった文書。鶏鉾の構造,飾付けの様子や祗園祭を執行する際の様々な取決めを知るうえで貴重。また近世の山鉾町の組織や経済の様子等も伝える。

ひがししおこうじむらしょうやようすけむらかたしょじにっき
東塩小路村庄屋要助村方諸事日記
正行院に伝わる東塩小路村関係の文書群中の一つで,嘉永3年(1850)から慶応4年(1868)にかけてのもの。当時,東塩小路村の庄屋であった若山要助が記している。

ぜんちょうじちょうもんじょ
善長寺町文書
祗園祭山鉾の綾傘鉾を出す善長寺町の文書で江戸〜明治時代のもの。中でも文化文政年間(1804〜30)頃を中心とする町代改義一件についての文書が大半を占める。

なぎなたほこちょうもんじょ
長刀鉾町文書
祗園祭の鉾町の一つ,長刀鉾町の江戸時代〜明治の文書。文化文政年間(1804〜30)を中心とする町代改義一件についての文書が大半を占める。

もくぞうだいにちにょらいざぞう
木造大日如来坐像
目鼻や口等の顔の造作は小ぶりで,耳朶(じだ)や手首は極めて細く,足膝部にも繊細な趣が見られる。対して,体部には厚みがあり,衣文はは弾力を感じさせる丸みを持ち,宝髻の巻込みにはリアルな動きが感じられる。平安時代最末期の繊細な作風に鎌倉時代初期の写実的な作風を加味した美作。

もくぞうやしゃぎょうきざぞう
木造夜叉形跪坐像
ヒノキ材の一木造の夜叉形像。福田寺境内の小堂内に安置され,龍神像と称されて氏子達の厚い信仰のもとに守り継がれてきた像である。臂釧(ひせん)や褌(ふんどし)以外は何も身につけない像高60cm程度の裸形像で,口を閉じ,腕を胸前で屈臂し,二本の足指や獣耳をもつことから,本像は本来は兜跋(とばつ)毘沙門天像の左右に配される毘藍婆(びらんば)あるいは尼藍婆(にらんば)像であった可能性が高い。平安時代前期にまで遡り得る夜叉形の古例として貴重な作例といえる。

ぼんしょう
梵鐘
本梵鐘は泉涌寺第14世月航全皎(がっこうぜんきょう)を大勧進とし,貞和4年(1348)に制作されたもの。その際,将軍足利尊氏やその弟直義から,鋳造を担当した七条大工と三条大工に各一頭の馬などが褒賞として下賜されたことが知られている。陽鋳で表された種子の書風,梵鐘全体の形姿や細部の文様の様式も南北朝時代の特徴を示す。

もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう
木造十一面観音立像
本像は浄禅寺観音堂のご本尊である。浄禅寺は寿永元年(1182)文覚(もんがく)上人の開創と伝えられ,地蔵堂の地蔵菩薩像は京都六地蔵巡りの一「鳥羽地蔵」として親しまれている。本像は均整の取れたプロポーションで,背中の盛り上がりや腹部の肉のたるみが巧みに表現されている。一木造で,制作年代は10世紀と考えられるが,寺の創建を遡ることからは他所から移されたと想定される。ただ,いかなる経緯で浄禅寺に納められたのかは詳らかでない。平安時代に遡る彫刻の優品で,また,地元の信仰を集める点でも重要な作例である。

ほうじょうしょうへきが かのうさんせつひつ
方丈障壁画 狩野山雪筆
狩野山楽の弟子であり,後女婿となった狩野山雪の寛永8年(1631)頃の作。

おくざしきしょうへきが たにぶんちょう・はらざいちゅう・もりてつざん・あずまとうよう・がんくひつ
奥座敷障壁画 谷文晁・原在中・森徹山・東東洋・岸駒筆
奥座敷は仁和寺の坊官の屋敷の一部を昭和21年頃に移建したもの。障壁画は,制作時期がやや異なるものの,文化文政期の大家5人が分担して制作。

けんじょうしょうじ かのうたかのぶひつ
賢聖障子 狩野孝信筆
賢聖障子とは内裏紫宸殿(だいりししんでん)の母屋と北庇の間の柱間に嵌められた貼付壁のことで,中国の殷代から唐に至る32人の賢聖像や獅子狛犬等を描く伝統的な障壁画。本作品は現存最古で,慶長度の紫宸殿を飾ったもの。

しほんぼくがかちょうず ろっきょくびょうぶ かのうたんゆうひつ
紙本墨画花鳥図 6曲屏風 狩野探幽筆
四季にわたる花鳥を墨画を主体に簡潔に表現した,探幽の比較的若い時期の作品。

しほんぼくがたんさいしんざんだいたくず ろっきょくびょうぶ まるやまおうきょひつ
紙本墨画淡彩深山大沢図 6曲屏風 円山応挙筆
円山応挙(1733〜95)によって,雨季を含んだ秋の山間と鴨を配した水辺という対照的な景観を,鋭い観察によって的確に描き分けられた作。 

しほんちゃくしょくかちょうず ろっきょくびょうぶ がんくひつ
紙本著色花鳥図 6曲屏風 岸駒筆
両隻に春秋の景を描く。筆者は岸派の祖・岸駒(1749〜1838)で落款に「雅楽助」,印章に「可観」の号を使用していることから天明6年(1786)〜文化5年(1808)の制作と判断される。

けんぽんちゃくしょくほそかわあきもとふじんぞう
絹本著色細川昭元夫人像  
霊光院殿とも称される細川昭元夫人お犬の方は,織田信長及びお市の方の妹にあたり,天正10年(1582)に30余歳で病没している。図上の妙心寺第44世月航宗津による賛から,像主没年にその子によって制作された追慕像とわかる。本図は当時,画壇の主流をなしていた狩野派画家による作例で,その描写の的確さや衣装の華麗さは,当代女性肖像画の中でも群を抜く出来栄えとなっている。

けんぽんちゃくしょくまえだげんいふじんぞう
絹本著色前田玄以夫人像 
織豊政権の要職を占めた前田玄以に嫁いだ夫人の生前の姿を描いたもの。慶長15年(1610)の年記をもつ蟠桃院開山一宙東黙の賛をもつ。大胆な衣装の文様に当代夫人の特色が見られる。

けんぽんちゃくしょくてんきゅういんぞう
絹本著色天球院像 
天球院(1568〜1636)は姫路城主池田輝政の妹にあたり,生前の寛永8年(1631)に自らの菩提寺として,妙心寺山内に塔頭天球院を建立している。社殿のなかに像主を配して荘厳化する形式は,女性像においては寛永期にその盛行をみるが,本図はその代表的な作例。天球院が創建された時期に制作か。

しほんぼくがそうさんすいず しほんぼくがぶかんかんざんじっとくず ざちょうびょうぶ はせがわとうはくひつ
紙本墨画草山水図2,紙本墨画豊干寒山拾得図2 座頭屏風 長谷川等伯筆
本屏風は唐人物図と山水図とを表裏に描き分けたもの。各画面に朱文方形「等伯」印が認められること等から,桃山時代の巨匠長谷川等伯(1539〜1610)の筆になることがわかる。諸人物の描写は丁寧かつ柔軟な筆致が用いられ,?墨による草山水図には濃淡の墨調や筆触に一層の明快さが見られ,60歳前後の作と考えられる。

しほんぼくがさんすいず ざちょうびょうぶ かのうたんゆうひつ
紙本墨画山水図 座頭屏風  狩野探幽筆
本座頭屏風は表裏それぞれ2面ずつ計4面すべてに水墨山水図を配したもの。本来は2面の図様を連続させ,2図を以て構図を完結させるもので,この2図によって全体として四季にわたる山水を表現している。探幽は水墨画の和様化を図り,瀟洒な水墨画の確立を試みた画家で,本図はその減筆体作例の一つ。40歳代後半頃の制作か。

しほんぼくがいさんとうへいず かのうもとのぶひつ
紙本墨画 い山倒瓶図 狩野元信筆
本図は,もと床壁貼付を掛幅に改装したものと考えられる。唐の百丈懐海がい山霊祐に地面上の瓶を示して「これを瓶と呼ぶべからず。では何と呼ぶか」と問うたのに対し,い山は無言でその瓶を蹴倒して悠然と去ったという故事を描いた禅機画。緊張感ある人物の表情が行体で,簡潔かつ的確に描かれており,無款ながら,狩野元信筆と判断される貴重な作品。制作時期は天文年間(1532〜55)半ば頃と想定される。

もくぞうせんじゅかんのんりゅうぞう
木造千手観音立像
藤原定家(1162〜1241)の念持仏と伝える像。もの静かな面相と程よい肉身に,小づくりの脇手を配しており,天衣の遊離部や微細な脇手持物の一部までも残すほど保存状況も良好である。伝承にふさわしく12世紀後半の様風を伝えるもので,鎌倉時代初期における藤原風の美作として貴重。

もくぞうやくしにょらいざぞう
木造薬師如来坐像
やや幅の広い丸顔に仰月形の小ぶりな目と,分厚く大ぶりな耳をそれぞれ配しており,やや撫で肩で,足膝部は低く前方へ大きく張り出している。肉身部はほどよい膨らみをもち,衣文はわずかに鎬立ったものを等間隔に整然と配する。平安時代後期の作例であり,仏師康尚の作風に近い。

もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう
木造十一面観音立像
カヤ材を用いた一木造,彫眼の技法によって制作される。肉身,衣の全面に淡朱を施した着彩像で,赤栴檀像の模擬像として制作されたもの。異常なほど長い下半身と,膝前の衣文に尋常でない表現がうかがえる。平安時代前期の制作で,奈良時代に盛んとなった古密教系の赤色檀色像の古例。

もくぞうあみだにょらいざぞう
木造阿弥陀如来坐像
四肢の分節の明快さ,肩,肘を十分に張った相貌からは慶派の作風を窺うことができるが,一方,等間隔に整えられた衣文は12世紀後半頃の円派の様風を伝えている。平安時代の旧様を基本に,鎌倉時代の新様を融合させて13世紀前半に制作されたと考えられる。現在,阿弥陀三尊像の中尊。

もくぞうじぞうぼさつはんかぞう
木造地蔵菩薩半跏像
本像は元は嵯峨福生寺地蔵堂の本尊で,同寺衰退後に薬師寺に移された。左手に宝珠,右手に錫杖を持ち,腹部に裳の上縁をのぞかせ岩上に座る点は,壬生寺蔵地蔵菩薩半跏像(焼失)の形を範としたものと考えられる。全体的に穏やかな彫法でまとめられ,13世紀前半の保守的な仏師の手になるものと推定される。昭和61年の修理で,背面内刳部より,建長8年(1256)の修理銘が発見されており,それ以前の製作であることが確認された。

もくぞうしょうとくたいしらぎょうりゅうぞう
木造聖徳太子裸形立像
鎌倉時代以後,聖徳太子信仰の盛行に伴って,南無仏太子像も数多く造られたが,本像のような裸形像の聖徳太子像はあまり例を見ない。特に下半身の造形に優れ,足が短く,腹部・臀部・膝頭などの膨み,幼い感じを残す直立のポーズ等,小児の体型の特色をよく表す。制作は13世紀。

もくぞうこんごうりきしりゅうぞう
木造金剛力士立像
本像は近世の文献によると,もと車屋町通二条上る仁王門町にあったと伝えられている。左方を阿形,右方を吽形とする平安時代後期以来の定式に則る。本像は総体に誇張に走らない穏やかな平安時代後期の和様の表現が認められる。鎌倉時代に興隆した慶派による彫刻のような躍動感には欠けるものの,程よい量感の中に力をこめ,静かに染み出してくる怒りの表情には底光りのする威力が湛えられる。岐阜県円鏡寺蔵の木造金剛力士像に様式的に近似し,鎌倉時代前半期の制作と考えられる。

ろうるしとうだい
黒漆燈台
本燈台は,総体錆下地,黒漆塗ヒノキ製の高燈台で,大治5年(1130)制作の可能性が高い本尊木造阿弥陀如来坐像(重要文化財)の両脇に置かれて伝来したもの。本尊と同時期,もしくはそれに近い12世紀の間の制作と考えられる。この時期の高燈台は全国的にも3件しか確認されておらず,数少ない燈台の古例として貴重。

ほうじょうしょうへきが かのうさんせつひつ
方丈障壁画 狩野山雪筆
狩野山楽の弟子であり,後女婿となった狩野山雪の寛永8年(1631)頃の作。

もくぞうぼさつざぞう
木造菩薩坐像
ヒノキ材を用い,漆箔,彫眼の技法により制作されている。現在,阿弥陀三尊像の脇侍として安置されているが,もとは供養菩薩12躯の一つとして,かつて存在した丈六阿弥陀如来坐像の飛天光背周縁部に取り付けられていたものと思われる。平安時代後期の光背の残欠として貴重な遺例。

もくぞうでんさがてんのうざぞう
木造伝嵯峨天皇坐像
嵯峨天皇(在位809〜823)の勅願所であるという当寺の創建伝承とも関連して嵯峨天皇像として伝えられているが,本像の像主を嵯峨天皇とする確証は見出せない。しかし,強装束姿の肖像彫刻として巧みにまとめられた佳品で,南北朝時代(14世紀)の制作と考えられる。





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