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京都の歴史年表 都市のすがた

年号(西暦) 内容

旧石器時代
(先土器時代)
洛北や洛西,山科盆地中央部などで人々が暮らしはじめた。(菖蒲谷遺跡・大枝遺跡など)
縄文時代 樫原廃寺復元図(梶川敏夫作)北白川や山科盆地の丘陵部に集落がつくられた。(北白川縄文遺跡群・日野谷寺町遺跡など)
弥生時代 深草や桂川沿いなどの平野部にも集落がつくられた。(深草遺跡・中久世遺跡など)
4世紀 樫原附近に住む有力な豪族が,天皇の杜古墳などをつくる。
5世紀前半 深草に秦氏が進出した。また黄金塚古墳などの大型古墳がつくられた。
5世紀半ば 深草の秦氏が嵯峨野へも進出し,大堰川に葛野大堰を築いて開発を進める。
6世紀 嵯峨野・松尾などに群集墳が多数つくられた。
7世紀 このころ,京都盆地に広隆寺・法観寺・北野廃寺・北白川廃寺などの寺院がつくられはじめる。
7世紀後半 山背国(やましろのくに)という行政区画が成立した。大和と全国をつなぐ交通路の整備により,現市域内には北陸道・山陰道が通った。
延暦3(784)年11月 平城京から長岡京(乙訓郡長岡)に遷都した。
延暦4(785)年7月 長岡京造営のため,全国で延べ31万人を雇うことが決定した。
延暦4(785)年9月 長岡京造営の推進者である藤原種継が暗殺された。
延暦12(793)年正月 葛野郡宇太の地に大納言藤原小黒麻呂らを派遣して地相を実地調査し,新京建設がはじまった。このあとすぐ長岡京で内裏解体がはじまり,桓武天皇はそのため他所(東院)へ移った。
延暦12(793)年9月 新京内の宅地が人々にわけ与えられる。これにより,貴族の邸宅などの建設がはじまった。
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延暦13(794)年7月 東西の市が長岡京から新京に移される。
延暦13(794)年10月 平安京模型(京都市蔵)桓武天皇が新京に移り(22日),遷都の詔が下される(28日)。翌月8日,新京を「平安京」と名付け,「山背国」を「山城国」に改めた。
延暦24(805)年12月 造宮職が廃止され,造都事業がいちおう終了した。
弘仁元(810)年9月 平城上皇が平城京への遷都を試みるが失敗(薬子の変)。この結果,平安京の都としての基盤が固まった。
弘仁9(818)年4月 宮中殿閣・諸門・条坊などの呼称が唐風に改められ,銅駝坊・陶化坊などの呼称が用いられる。
弘仁年間(810〜24) 検非違使庁が設置され,平安京および周辺地域の治安維持にあたった。
天長元(824)年 この年防鴨河使・防葛野河使を置く。
天長4(827)年9月 左右京職に京中にある空閑地を調べさせ,各地主に耕作させる。
貞観4(862)年 このころの朱雀大路は,昼間は牛馬の放し飼いの場となり,夜間は盗賊が出没した。
貞観5(863)年5月 神泉苑朝廷が神泉苑で御霊会を催し,早良親王(崇道天皇)らの霊をまつる。疫病をもたらす怨霊を鎮める都市の祭礼としての御霊会の初見。
元慶3(879)年9月 九条坊門通の東にあった鴨川辛(唐)橋が焼ける。
天徳4(960)年9月 初めて内裏が焼失した。この後内裏の焼失が相次ぎ,公卿の邸宅が天皇の居所として用いられることが多くなった。これを里内裏とよぶ。
天禄元(970)年6月 はじめて祇園御霊会(祇園祭)が官祭として行われた。
天元3(980)年7月 大風により羅城門が倒壊し,以後,再建されなかった。
天元5(982)年10月 慶滋保胤が「池亭記」を著し,右京の衰退と左京北部の繁栄を記録した。
永延2(988)年11月 「京都」が地名として用いられた。
正暦4(993)年 「天下疫癘」と呼ばれる疫病により,多くの人が死んだ。
承暦元(1077)年12月 法勝寺八角九重塔模型(京都市蔵)白河(現左京区岡崎)に法勝寺が創建される。いわゆる「六勝寺」の初めで,これ以後,白河地域に多くの寺院・院御所が建てられた。4年後,法勝寺に高さ81メートル(推定)の八角九重塔が建立される。
応徳3(1086)年7月 鳥羽離宮模型白河上皇が鳥羽離宮を造営,周辺には寺院・院御所が建てられる。多くの貴族・官人が参加したため,「あたかも都遷りのごとし」といわれた。
嘉保2(1095)年 このころ,鴨川を「朱雀川」,東京極大路(現寺町通附近)の二条以北を「東朱雀大路」とする呼称がみえる。
応保元(1161)年4月 後白河上皇が鴨東の法住寺殿に移る。このころ,このすぐ北には平清盛の六波羅邸があり,一帯には平家一門が集住していた。
治承元(1177)年4月 樋口富小路(現万寿寺通富小路附近)からの出火が大火災となり,市街や大内裏の多くが焼ける。(太郎焼亡)。このとき焼失した大極殿は,以後再建されなかった。また翌年4月には七条東洞院から出火し,大規模な火災となった(次郎焼亡)。
治承4(1180)年6月 平家一門が福原(現神戸市)へ遷都をするが,11月に平安京に戻った。
養和元(1181)年 この年と翌年,飢饉により京中に餓死者が充満した(養和の大飢饉)。左京だけでも4万2千体以上の死体があったという。
寿永2(1183)年7月

平家一門の都落ちにあたり,六波羅と西八条にあった平家の邸宅を焼く。続いて11月には法住寺殿が焼失する。

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建久3(1192)年 このころ,三条附近の町小路(後の新町通)沿いには,魚・鳥などを商う店が建ち並んでいた。
建暦元(1211)年 八条院の御所跡が民家の建ちならぶ市街地となり,八条院町と呼ばれた。
承久3(1221)年6月 承久の乱で後鳥羽上皇方が鎌倉幕府に敗れ,六波羅探題が置かれる。
安貞元(1227)年4月 内裏が焼失し,以後,再建されなかった。
嘉禎元(1235)年3月 徳大寺中納言の三条邸が焼失し,大内裏の荒廃が進み「内野」と呼ばれるようになる。
暦仁元(1238)年6月 鎌倉幕府が市中のほぼ東大宮通以東48か所に篝屋(かがりや)を設置し,夜間警備を強化した。
建長7(1255)年10月 亀山殿(現天龍寺)が造営され,以後,嵯峨野の開発が進んだ。
元弘3(1331)年8月 光厳天皇が東洞院土御門内裏で即位した。これ以後,この内裏がよく使われた。
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暦応元(1338)年8月 室町幕府の跡を示す石標足利尊氏が征夷大将軍になり,三条坊門高倉の尊氏邸に幕府を開く。
康永元(1342)年3月 法勝寺九重塔が焼失した。このころから白河地域の衰退が顕著になった。
永和4(1378)年3月 足利義満が今出川室町に室町殿(花の御所)を造営した。このころ東洞院土御門内裏と花の御所を中心とした地域を「上京」,三条・四条あたりを「下京」と呼ぶようになり,両者の町としての性格の違いが明確になっていく。
明徳3(1392)年閏10月 南北朝が合一した。これ以後,内裏は東洞院土御門内裏に定着し,これが現在の京都御所に発展する。
応永6(1399)年9月 相国寺の七重大塔が建てられた。高さ約109メートルあったが,4年後に落雷によって焼失した。
応永8(1401)年5月 町の連合体である「惣町」(そうちょう)の名が初めて見える。
正長元(1428)年9月 京都近郊の人々が徳政(債務破棄)を求め,京都の富裕な土倉・酒屋を襲撃した(正長の土一揆)。
寛正元(1460)〜2(1461)年 大飢饉がおこり(寛正の飢饉),京中の死者は約8万2千人にのぼったという。
応仁元(1467)〜文明9(1477)年 西陣碑応仁・文明の乱がおこり,東軍は上京に堀(御構)を掘って防御し,西軍の西陣と対した。下京でも堀を巡らしていたため,この時期の京都は,一種の城塞都市のようになっていた。
文明10(1478)年 蓮如が山科本願寺をつくり,その後寺内町(じないちょう)が形成されたが,天文元(1532)年8月に焼失した。
長享元(1487)年正月 「西陣」が地名として用いられている。
明応9(1500)年6月 応仁・文明の乱で中断していた祇園会が再興された。
永正8(1511)年8月 細川澄元と細川高国らとが船岡山附近で戦う(船岡山合戦)。船岡山附近は,丹波方面から市街地に入る入口にあたっていた。
天文5(1536)年7月 比叡山を中心とする勢力と法華門徒とが戦い(天文法華の乱),法華門徒の多かった下京を中心に広い範囲で市街が荒廃した。
天文11(1542)年11月 法華宗21か寺に洛中帰還の許しが出,市街地の復興が進んだ。
天文18(1549)年 上京で「町組」の名が初めて見える。
天文年間後半 洛中洛外図屏風(財団法人高津古文化会館)このころの京都の町の姿が,上杉本「洛中洛外図屏風」に描かれた。
永禄11(1568)年9月 織田信長が岐阜から足利義昭を擁して入京し,上京と下京の間に二条御所(旧二条城)を義昭のために造営する。
元亀3(1572)年12月 このころは,上京の町は5組,下京の町は3組の町組に編成されていた。
天正元(1573)年4月 織田信長に反抗的な姿勢を見せていた上京が焼打ちされた。
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天正10(1582)年6月 本能寺の変がおこり織田信長が自刃した。続く山崎合戦で明智光秀も横死した結果,羽柴秀吉が頭角をあらわす。
天正11(1583)年6月 羽柴秀吉が大坂城に入り,大坂が政治の中心となったが,11月には妙顕寺城が築かれ,秀吉の京都支配の拠点となった。
天正15(1587)年9月 聚楽第行幸図屏風(堺市博物館)豊臣秀吉が内野に聚楽第を築いた。
天正17(1589)年 「都百景」のうち五条橋下(佛教大学)大仏殿と五条大橋が建造された。両者は江戸期の鴨東でランドマーク的な役割を果たした。
天正18(1590)年正月 三条大橋が建造された。東海道の整備により,ここが京の東の玄関口となり,京都を象徴する存在になった。
天正18(1590)年 豊臣秀吉が市街地に南北の道路を新設し,短冊形の町並みをつくりだした(町割り)。また諸寺院を移転させ,寺町・寺之内の寺院街がつくられた。
天正19(1591)年閏正月 本願寺が大坂から堀川六条に移される。門前は寺内町となり,京都南部の開発が進んだ。
天正19(1591)年9月 豊臣秀吉が洛中の地子(じし・年貢のこと)を永代免除した。
天正19(1591)年 豊臣秀吉が京都の外周に御土居(土塁)を築き,上京・下京を囲い込んだ。
文禄 3(1594)年8月 伏見城(指月城)が完成した。
文禄 4(1595)年7月 関白豊臣秀次の切腹にともない,聚楽第が破壊される。跡地は後に市街地として開発され,町組(聚楽組)に編成された。
慶長元(1596)年7月 大地震がおこり,伏見城(指月城)が倒壊するなど各所で大きな被害があった(慶長大地震)。
慶長2(1597)年5月 伏見城が山上に再建され,豊臣秀吉が入る。伏見には多くの大名屋敷が建てられ,城下町が形成された。
慶長5(1600)年8月 関ケ原合戦の前哨戦で伏見城が焼失した。
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慶長7(1602)年2月 徳川家康の援助で東本願寺ができ,門前は寺内町となり,京都南部の開発が更に促進された。
慶長7(1602)年5月 徳川家康が二条城の造営を開始し,翌年3月に入城した。
慶長7(1602)年6月 徳川家康が伏見城を再建し,京都での居城とする。
慶長11(1606)年 角倉了以が大堰川を整備し,丹波との航路を開いた。
慶長12(1607)年12月 豊臣秀頼が北野天満宮の社殿を造営した。このころ,秀頼による寺社の復興がさかんに行われる。
慶長16(1611)年11月 角倉了以が高瀬川の開さく工事をはじめた。19年に完成し,京と伏見が舟運で直結された。
元和5(1619)年 伏見城の放棄を決定する。以後,城内・城下の建物を各地に移築し,徳川家光の将軍宣下(元和9年7月)を最後に廃城となった。廃城により,伏見は城下町ではなくなり,旧大名屋敷の名を冠した町名が残された。
元和9(1623)年 淀城(新淀城)が築かれた。築城には,伏見城の廃材が用いられたという。
寛永15(1638)年 このころ,上京の町が12の町組に編成された。
寛永17(1640)年7月 遊里が六条三筋町から朱雀野に移され,島原と呼ばれた。
寛永18(1641)年正月 江戸幕府によって知恩院が再興された。このころ,東寺の五重塔(寛永21年)などの寺院堂舎が,江戸幕府によって多く再興された。
寛文6(1666)年 このころまでに下京の町が6の町組に編成された。
寛文10(1670)年 鴨川の石堤(寛文新堤)が完成し,鴨東の四条附近に祇園外六町(そとろくちょう)が開かれた。以後,鴨川沿いの新地開発が進んだ。
元禄8(1695)年9月 聚楽第跡の天秤堀をはじめ,洛中塵捨場七か所が指定された。
宝永5(1708)年3月 京都中心部のほとんどが焼失する大火災がおきた(宝永の大火)。復興の際,御所周辺の公家町が拡大・整備され,寺町通東側や鴨東二条などに新しい市街地が開かれた。
享保8(1723)年8月 稲葉正知が淀城主となる。以後,明治4年の廃藩置県まで稲葉氏が居城とした。
享保15(1730)年6月 西陣で火災があり,民家3800軒,織機3500台ほどが焼け,西陣機業が大打撃を受けた(西陣焼け)。
寛延3(1750)年8月 二条城天守閣が雷火で焼失した。以後,天守閣は再建されなかった。
天明8(1788)年2月 天明大火焼失範囲を示す瓦版(京都市歴史資料館)洛東から出た火が,強風にあおられて大火となった(天明の大火)。約3万7千軒が焼け,市街地のほとんどが焼失し,京都の歴史上最大の火災となった。
寛政2(1790)年11月 天明の大火で焼失した内裏(京都御所)が,平安時代の様式を模した復古様式で再建された。
天保元(1830)年7月 大地震がおこり,洛中洛外で死者約700人を出した。余震は翌年まで続いた。
文久3(1863)年 新設された京都守護職の屋敷が釜座下立売の町家を取り払って新設される。京都守護職は慶応3年に廃止され,跡地は現在の京都府庁になっている。
元治元(1864)年7月 蛤御門の変による戦闘で火災がおこり,市街地の大部分が焼失した(どんどん焼け)。焼失した町は811町に及んだ。
慶応元(1865)年閏5月 将軍徳川家茂が再び上洛した。この時期,政局の中心は京都に移り,諸大名も加賀藩邸(岡崎)・土佐藩邸(百万遍)など藩邸をさかんに設ける。
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明治元(1868)年正月 伏見・下鳥羽・淀で大規模な戦闘があり(鳥羽・伏見の戦),伏見の町が焼失する。
明治2(1869)年正月 町組が改正され,上京が33,下京が32の町組に再編された。現在も元学区として住民自治の基本単位になっている。
明治2(1869)年3月 明治天皇が2度目の東京行幸。そのまま東京にとどまる。それにともない京都から東京に移住する人が多く,京都の衰退が懸念された。
明治2(1869)年5月 上京第二十七番組小学校(現柳池中学校)で開業式が実施された。以後,町組ごとに小学校が設立され,年内に64校を数えた。
明治3(1870)年6月 西高瀬川が開削され,市街と桂川・淀川等を結ぶ航路が開かれた。
明治4(1871)年2月 京都府参事(後に第2代知事)槙村正直の殖産興業政策の一環として,河原町御池に勧業場が開設される。鴨川西岸には,舎密局・織工場・療病院などの勧業・教育施設が建ち並んだ。
明治5(1872)年 寺社の境内地が召し上げられ,その土地を利用して新京極通が開通した。
明治7(1874)年4月

四条大橋が架けなおされ,鉄橋になった。

明治10(1877)年2月 京都−神戸間に鉄道が開通し(現JR東海道線),初代京都駅(七条ステンショ)が開設された。
明治12(1879)年3月 郡区町村編制法により,京都の中心部が京都府上京区・下京区に編成された。
明治16(1883)年9月 岩倉具視の進言により空き地になった旧公家町が整理され,現京都御苑の骨組みがほぼ完成した。
明治19(1886)年10月 八坂神社旧境内地などが公園地に指定された。12月京都円山公園と命名される。近代都市公園として整備拡張され,大正3年(1914)に完成する。
明治22(1889)年4月 市制施行により「京都市」が成立したが,市長は東京・大阪とともに,特例により府知事が兼務した。この特例は明治31年に廃止された。
明治23(1890)年4月 琵琶湖疏水の現状琵琶湖第一疏水が完成した。
明治24(1891)年5月 蹴上発電所で日本初の水力発電事業がはじまった。
明治28(1895)年2月 京都電気鉄道の伏見−七条間が開通した。4月には七条−南禅寺間が開通(日本最初の市街電車)。
明治28(1895)年 第四回内国勧業博覧会場の図(京都市歴史資料館)4月に第四回内国勧業博覧会が催され,10月に平安遷都千百年紀念祭が行われた。
明治29(1896)年4月 奈良鉄道の京都−奈良間(現JR奈良線)が開通した。
明治30(1897)年6月 京都帝国大学(現京都大学)が設立された。
明治31(1898)年10月 市制特例の撤廃にともない,初代市長に内貴甚三郎が就任し,市役所が開庁した。
明治41(1908)年11月 陸軍第十六師団が深草に移駐した。以後,一帯は陸軍の街として発展した。
明治43(1910)年4月 京阪電鉄の天満橋−五条間が開通した。
明治43(1910)年8月 京都−舞鶴間の鉄道(現JR山陰本線・舞鶴線)が全通した。
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大正元(1912)年6月 三大事業(第二琵琶湖疏水事業・水道事業・道路拡幅並電気軌道敷設事業)が完了した結果,四条通や烏丸通などが拡幅され,市電が開通した。京都市による市電事業は,はじめ私営の京都電気鉄道と競合するが,後にこれを買収した。
大正元(1912)年8月 京津電車の三条−大津間(現京阪京津線)が開通した。
大正4(1915)年11月 大正天皇の即位大礼が京都御所で行われた。
大正7(1918)年4月 朱雀野村など16町村が京都市に合併された。
大正9(1920)年6月 高瀬川の舟運が鉄道などの輸送機関の発達により廃止された。
大正10(1921)年8月 東海道線(現JR)の東山トンネルが開通。これにより,東山を避けて南へ迂回していた路線が,現在の姿になった。
大正11(1922)年 初の都市計画事業として,北大路・西大路・七条・東大路を第1号線とするなど,幹線街路15路線の建設計画事業に着手した。昭和12年頃までに大部分が完成。
大正14(1925)年9月 京福電鉄の出町柳−八瀬間(現叡山電鉄)が開通。のち鞍馬へも分岐した。
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昭和2(1927)年12月 中央卸売市場が開かれた。
昭和3(1928)年5月 市営バス事業が営業を開始した。
昭和3(1928)年11月 昭和天皇の即位大礼が京都御所で行われた。
昭和3(1928)年11月 新京阪鉄道の高槻−西院間(現阪急電鉄京都線)と,奈良電鉄の京都−西大寺間(現近鉄京都線)が開通した。
昭和4(1929)年4月 市域の拡大と人口急増にともない,上京区・下京区の2区に中京区・左京区・東山区が加わり5区となった。
昭和4(1929)年5月 紀伊郡伏見町に市制が布かれ,「伏見市」となる。
昭和6(1931)年3月 新京阪鉄道(現阪急電鉄)の西院−大宮間が地下線として開通した。
昭和6(1931)年4月 伏見市など27市町村を合併し、右京区・伏見区が成立し,7区になった。
昭和7(1932)年 京都市の人口が100万人を超えた。
昭和9(1934)年9月 室戸台風により,社寺や学校に大きな被害が出た。この後,この被害を機として,市内の小学校が木造から鉄筋コンクリート造に変わった。
昭和10(1935)年6月 大豪雨により鴨川をはじめとする市内のほとんどの河川が洪水をおこした。これを機に天神川などの河川改修が行われた。
昭和18(1943)年3月 巨椋池の干拓事業が完成した。
昭和20(1945)年1月 東山区の馬町辺りに空襲があった。京都で初めての空襲で,死者34名を出した。以後,京都市内には少なくとも5回の空襲があった。
昭和20(1945)年4月 疎開で建物が撤去された堀川通第3次建物疎開により,堀川通・御池通・五条通沿いの建物が取り壊され,拡幅された。
昭和20(1945)年9月 連合国軍が京都市内に進駐し,丸紅ビル・植物園・岡崎公園内の施設などが接収された。
昭和23(1948)年4月 愛宕郡中川村・小野郷村を合併した。以後,周辺の合併が続いた。
昭和28(1953)年3月 戦時中の疎開により広げられていた五条通・御池通・堀川通の拡幅事業が完了した。
昭和30(1955)年9月 上京区・下京区から北区・南区が分区し9区になった。
昭和38(1963)年6月 阪急電鉄が四条大宮から四条河原町まで地下線を延伸した。
昭和38(1963)年7月 名神高速道路の栗東−尼崎間が開通。山科に京都東インターチェンジ,竹田に京都南インターチェンジが設置された。
昭和39(1964)年10月 東海道新幹線が開通し,京都駅が停車駅となった。
昭和39(1964)年12月 京都駅前に京都タワーが完成した。建設にあたっては,景観論争がおこった。
昭和43(1968)年3月 山科に清水焼団地が完成した。
昭和46(1971)年 本圀寺が堀川六条から山科に移転した。このころから市中寺院の郊外移転が相次いだ。
昭和47(1972)年8月 京都市西部の大規模な新興住宅地である洛西ニュータウンの建設がはじまった。1976年一部入居開始,1987年にほぼ完成した。
昭和51(1976)年10月 東山区・右京区から山科区・西京区が分区し11区になった。
昭和53(1978)年9月 市電が全廃された。
昭和55(1980)年11月 京都で最初の地下商店街として,京都駅前にポルタが開業した。
昭和56(1981)年5月 京都市高速鉄道(地下鉄)烏丸線の京都−北大路間が開通した。以後,北は国際会館,南は竹田まで延伸している。
昭和57(1982)年11月 京都市歴史資料館開館
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平成6(1994)年 平安建都1200年記念事業が行われた。
平成9(1997)年9月 京都駅ビルが開業した。2代目京都駅は大正3年,3代目京都駅は昭和27年に開業しているので,これで4代目の駅舎となる。
平成9(1997)年10月

京都市高速鉄道(地下鉄)東西線の醍醐−二条間が開通した。以後、東側は六地蔵まで延伸している。

平成17(2005)年4月

北桑田郡京北町を右京区に編入合併した。