二条城
都市史21

にじょうじょう
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どんな城?

二条城大手門現況
 関ヶ原合戦・大坂の陣に勝利した徳川家康が二条堀川の西(現中京区二条城町)に建てた城。慶長7(1602)年5月村越茂助を奉行として着工されました。翌8(1603)年3月には家康が将軍宣下をうけるため上洛入城し,その頃には主要部分が完成していたと考えられています。

 二条城は京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営され,建設当初は二条亭とも,二条新御所,二条新屋敷とも呼ばれていました。

 元和5(1619)年増築が行われ,御座所・大広間・二の間などが整えられ,二の丸の大部分は現在の配置で建てられていたと推定されています。特に,二条城が今日見るような形で整備されたのは,三代将軍家光(いえみつ)の時。寛永3(1626)年の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の二条城行幸を契機として,伏見城の遺構などが移され,天守閣を含めてすべてが完成したのは寛永年間(1624〜43)といわれています。

 寛文2(1662)年5月の大地震で石垣と二の丸殿舎が被害を受け,寛延3(1750)年雷火によって天守閣が焼失,ついに再建されませんでした。さらに天明8(1788)年にも天明の大火により本丸の殿舎,櫓(やぐら),二の丸の櫓の一部が類焼しました。

 文久3(1863)年,十四代将軍家茂上洛のため殿舎の整備が行われ,慶応2(1866)年,最後の将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)が二条城で将軍宣下を受け,慶応3(1867)年10月二条城で大政奉還が公表されました。

 明治維新後,二条城は太政官代が置かれ,東京遷都後は留守官の管轄下にありましたが,明治4(1871)年京都府に移管,同年から明治18(1885)年まで二の丸御殿に京都府庁がおかれました。二条城そのものは明治6年陸軍省の所管となり,明治17年に宮内省の管轄となり「二条離宮」と改称されました。

 昭和14(1939)年京都市に下賜され,今日に至っています。当初は恩賜元離宮二条城(おんしもとりきゅうにじょうじょう)と呼ばれました。

二条城の役割

 二条城は,豊臣秀吉の京都邸宅であった聚楽第(じゅらくだい)の機能を継承した徳川氏の京都屋敷として造営され,幕府の朝廷に対する公的な対面や儀礼の場として利用されました。

 江戸時代には二条城を中心に,京都所司代(きょうとしょしだい)・京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)・京都代官(きょうとだいかん)などの政庁が城の北・南・西の外周に設けられ,二条武家屋敷街といった景観を呈しました。

 現在,かつての二条城外周の政庁を伝える面影はありませんが,西ノ京小堀町(こぼりちょう)・西ノ京職司町(しょくしちょう)という町名が,京都代官小堀氏の役所や京都町奉行所が所在していたことを伝えています。

町名「二条城町」のはじまり

 現在二条城の所在地は「中京区二条堀川西入二条城町」(にじょうじょうちょう)ですが,正式に「二条城町」と称されるようになったのは,昭和14(1939)年11月24日のことです。

 宮内省から京都市へ移管された恩賜元離宮二条城について,当時京都市長の市村慶三(いちむらけいぞう)が二条城郭内およびその周辺の行政町名設定を市議会へ提出し,翌日に可決,京都府告示で公告されました。

 二条城の歴史にくらべ町名「二条城町」の歴史はずいぶんと新しいものだったのです。

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二条城 中京区二条堀川西入る二条城町

 現存する二条城の遺構は,竹屋町通(たけやまちどおり)・押小路通(おしこうじどおり)・堀川通(ほりかわどおり)・美福通(びふくどおり)に囲まれた約26万平方メートル。

 建造物のうち門は,東大手門・北大手門・西門のほか,本丸櫓門・桃山門・鳴子門・北仕切門・中仕切門が現存し,東と北の両大手門は慶長の創建時のものです。

 城内の建造物のほとんどが国宝や重要文化財に指定されています。また,平成6(1994)年に世界遺産に登録されました。

二条城本丸御殿と庭園
二の丸御殿現況

 本丸とは城の中心となる曲輪(くるわ,郭・廓)です。曲輪とは役割や機能に応じ城内に区画された小区域のこと。

 二条城の本丸が造営された当初のことは不明ですが,天明8(1788)年の大火の飛び火で本丸御殿・隅櫓(すみやぐら)・多聞櫓(たもんやぐら)などが焼失。庭園も延焼して空き地となっていたと考えられています。

 幕末には,本丸内に徳川慶喜の居室が建てられ,庭園は茶庭風に造られました。居室は老朽化のため明治14(1881)年に撤去,庭園も取り除かれ空き地となりました。

 明治26(1893)年から27(1894)年にかけて,京都御苑内の旧桂宮(かつらのみや)邸の一部が移築され,枯山水庭園が作庭されました。現在の本丸庭園は明治29(1896)年に完成した庭園です。

 本丸御殿は,弘化4(1847)年の建造で嘉永7(1854)年の内裏炎上後,仮皇居として使用されたことがあり車寄(くるまよせ)・雁之間(かりのま)・中書院・奥御座所からなっています。

二条城二の丸御殿と庭園

 二の丸とは本丸を直接守る曲輪で,近世の城郭では家臣の屋敷や馬場などが配置されることが多かったようです。

 二の丸庭園は,慶長年間(1596〜1614)に二条城が造営された際に作庭されたものです。寛永3(1626)年後水尾天皇行幸の際,小堀遠州(こぼりえんしゅう)によって一部改修が加えられたといわれています。

後水尾天皇行幸当時の姿は,新たに増築された行幸御殿・中宮御殿・長局などに取り囲まれた中庭的な庭園でした。池の中に亭が建ち,池の中央にふたつの島,4つの橋を併せ持ち,二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)・二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の座)・行幸御殿上段の間(天皇の座),御亭のそれぞれから鑑賞できるよう設計されていました。

 京都市に下賜された後,二の丸庭園は,昭和14(1939)年名勝に指定され,昭和28(1953)年国の特別名勝に指定されました。

 二の丸御殿の殿舎は,唐門(からもん)・車寄(くるまよせ)・遠侍(とおざむらい)・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院からなり,近世に発達した書院造の住宅のうちで最も豪華な遺構といわれ,屋内の金壁障屏画は探幽(たんゆう)を含む狩野派の作です。

 昭和27(1952)年二の丸御殿六棟が国宝に指定され,昭和57(1982)年には二の丸御殿障壁画が重要文化財に指定されました。 


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