聚楽第と御土居
都市史18

じゅらくだいとおどい
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聚楽第って何?

 17世紀初めの「京都図屏風」に描かれた聚楽第内郭の堀跡を附近の現況に重ねた。現在の通りとの位置関係は森島康雄氏の復元案に従った。
 聚楽第は豊臣秀吉の京都における邸宅として,内野(うちの,平安京大内裏旧跡)に建築されました。秀吉は,天正13(1585)年関白に任官すると,翌年から聚楽第の造営を始め,同15年に完成しました。聚楽とは「長生不老の楽しみを聚(あつ)」めるという意味です。「じゅらくてい」とも読みます。

 聚楽第の構造は,北は元誓願寺通(もとせいがんじどおり),東は堀川通(ほりかわどおり),南は押小路通(おしこうじどおり),西は千本通(せんぼんどおり)を外郭とし,内郭には本丸を中心に北ノ丸,南二ノ丸,西ノ丸の曲輪(くるわ)が築かれていたと考えられています。しかし,徹底的に破壊され,そのうえ全面的な発掘調査が不可能なので,正確な範囲はわかっていません。

 発掘調査の結果,幅30メートルを超す大規模な堀がめぐらされていたことがわかっています。堀の外には武家屋敷が配置されました。如水町(にょすいちょう,黒田如水<くろだじょすい>)や浮田町(うきたちょう,宇喜多秀家<うきたひでいえ>)など町名にそのなごりを留めています。

 天正16(1588)年,聚楽第に後陽成天皇(ごようぜいてんのう)が行幸し,秀吉はその場で諸大名から誓紙を取り,政権の基盤固めを行いました。

 同19年,秀吉は甥の秀次(ひでつぐ)を関白に就任させ,聚楽第を譲りましたが,文禄4(1595)年秀次を自害に追いやると,聚楽第も破却しました。その遺構の一部は,当時造営中だった伏見城に移されました。

 聚楽第の跡地では,勧進能が行われ,芸能興行の場となりました。その後,次第に人家が立ち並び,聚楽組(じゅらくぐみ)と呼ばれる上京の町組の一つとして編成されました。

 町屋から運び出される塵芥で聚楽第の堀は埋められ,その地に聚楽蕪菁(じゅらくかぶら),聚楽(じゅらく,堀川<ほりかわ>)牛蒡(ごぼう)などの京野菜が作られました。また,聚楽第跡地の地下から得られる茶褐色の土は聚楽土(じゅらくつち)と呼ばれ,土蔵の壁土として利用されてきました。現在では茶室などの最高上塗専用土として使われています。

御土居(おどい)って何?

 秀吉による京都都市改造の一つとして,天正19(1591)年,御土居と呼ばれる土塁が構築されました。御土居は軍事的防衛や洪水対策とともに,洛中と洛外を明確に区別する役割りがありました。

 東は寺町東辺,西は紙屋川(かみやがわ),北は鷹峯(たかがみね)・上賀茂,南は九条を限り,総延長約23キロメートル。場所によって異なりますが,土塁に附属した堀幅は約4〜18メートル,土塁は高さ3メートル,基底部の幅9メートル。

 土塁の上には竹を植えて盛土を保護していました。また,一般に「七口」と総称される出入口(鞍馬口<くらまぐち>・大原口<おおはらぐち>・荒神口<こうじんぐち>・粟田口<あわたぐち>・伏見口<ふしみぐち>・東寺口<とうじぐち>・丹波口<たんばぐち>・長坂口<ながさかぐち>など10か所ほど)が設けられ,そこから全国に通じる街道が延びていました。

 慶長年間(1596〜1615)には既に一部は壊され,市街地の拡大とともに御土居の破壊が進みました。とくに東辺の河原町通・寺町通沿いは早くから市街地に変えられました。現在では北辺と西辺・東辺の一部が残存し,国指定史跡となっています。

 近年,御土居と同時に掘られた堀が土塁と不可分なものとみなされ,御土居堀という名称が提案されました。

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聚楽第跡(じゅらくだいあと) 上京区堀川下立売北西周辺

 聚楽第は,文禄4(1595)年,完全に破壊されたので,その範囲を確定するのは困難ですが,その外郭はほぼ元誓願寺通,堀川通,押小路通,千本通に囲まれる辺りにあったことは確かです。

 城内の施設や周囲に置かれた武家町は,現在の町名や通り名にそのなごりを留めています。山里町(やまざとちょう),下山里町,如水町(にょすいちょう),加賀屋町(かがやちょう),浮田町(うきたちょう),直家町(なおいえちょう),田村備前町(たむらびぜんちょう),福島町(ふくしまちょう),主計町(かぞえちょう),弾正町(だんじょうちょう),日暮通(ひぐらしどおり),黒門通(くろもんどおり)などがそれです。

 なお,聚楽第の遺構と伝えられるものとして,西本願寺飛雲閣(ひうんかく,下京区門前町)や,大徳寺唐門(北区紫野大徳寺町)などがあります。

松林寺(しょうりんじ) 上京区智恵光院通出水下る

 松林寺境内南の地面は新出水通より低く,寺の門から本堂裏にかけてさらにくぼんだ部分があり,聚楽第外郭の東西方向の堀にあたると考えられてきました。平成9(1997)年の発掘調査から部分的な外堀の一郭であったと見られています。

御土居跡(おどいあと)
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御土居跡

 御土居は,市街地の拡大がいちじるしい東辺から破壊が進み,明治時代になると大部分が壊されました。

 現在,僅かに残存する御土居のうち,以下の9か所は国指定史跡になっています。

(1)北区鷹峯旧土居町
(2)北区大宮土居町
(3)北区紫竹上長目町・上堀川町
(4)上京区寺町広小路上ル北之辺町(廬山寺内)
(5)中京区西ノ京原町
(6)上京区馬喰町(北野天満宮境内)
(7)北区平野鳥居前町
(8)北区紫野西土居町
(9)北区鷹峯旧土居町

 なお,(7)北区平野(ひらの)鳥居前町の御土居跡は,上の図のように復元整備され,御土居の旧状を示していますが,本来の御土居は土塁の上に竹や木が茂っていました。江戸時代に入ってからも,京都町奉行は竹木の保全に努め,上層町衆角倉(すみのくら)家の支配のもと,附近の農民が管理していました。

 御土居に囲まれた江戸時代の京都。天保2年(1831)に出版された「京町御絵図細見大成」に書き込まれた御土居をさらに太線で強調してみた。

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