聚楽第って何?
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17世紀初めの「京都図屏風」に描かれた聚楽第内郭の堀跡を附近の現況に重ねた。現在の通りとの位置関係は森島康雄氏の復元案に従った。 |
聚楽第は豊臣秀吉の京都における邸宅として,内野(うちの,平安京大内裏旧跡)に建築されました。秀吉は,天正13(1585)年関白に任官すると,翌年から聚楽第の造営を始め,同15年に完成しました。聚楽とは「長生不老の楽しみを聚(あつ)」めるという意味です。「じゅらくてい」とも読みます。
聚楽第の構造は,北は元誓願寺通(もとせいがんじどおり),東は堀川通(ほりかわどおり),南は押小路通(おしこうじどおり),西は千本通(せんぼんどおり)を外郭とし,内郭には本丸を中心に北ノ丸,南二ノ丸,西ノ丸の曲輪(くるわ)が築かれていたと考えられています。しかし,徹底的に破壊され,そのうえ全面的な発掘調査が不可能なので,正確な範囲はわかっていません。
発掘調査の結果,幅30メートルを超す大規模な堀がめぐらされていたことがわかっています。堀の外には武家屋敷が配置されました。如水町(にょすいちょう,黒田如水<くろだじょすい>)や浮田町(うきたちょう,宇喜多秀家<うきたひでいえ>)など町名にそのなごりを留めています。
天正16(1588)年,聚楽第に後陽成天皇(ごようぜいてんのう)が行幸し,秀吉はその場で諸大名から誓紙を取り,政権の基盤固めを行いました。
同19年,秀吉は甥の秀次(ひでつぐ)を関白に就任させ,聚楽第を譲りましたが,文禄4(1595)年秀次を自害に追いやると,聚楽第も破却しました。その遺構の一部は,当時造営中だった伏見城に移されました。
聚楽第の跡地では,勧進能が行われ,芸能興行の場となりました。その後,次第に人家が立ち並び,聚楽組(じゅらくぐみ)と呼ばれる上京の町組の一つとして編成されました。
町屋から運び出される塵芥で聚楽第の堀は埋められ,その地に聚楽蕪菁(じゅらくかぶら),聚楽(じゅらく,堀川<ほりかわ>)牛蒡(ごぼう)などの京野菜が作られました。また,聚楽第跡地の地下から得られる茶褐色の土は聚楽土(じゅらくつち)と呼ばれ,土蔵の壁土として利用されてきました。現在では茶室などの最高上塗専用土として使われています。
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