天文法華の乱
都市史15

てんぶんほっけのらん
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「題目の巷」 法華宗と京都

 鎌倉時代末,永仁2(1294)年に上洛した日像(にちぞう)によって,はじめて京都に法華宗(ほっけしゅう,日蓮宗)がもたらされました。

 以後,法華宗は日像派をはじめ多くの流派を形成し,応仁・文明の乱(1467〜77)前後には,洛中に本山だけで21か寺を数えるまでに拡大し,京都は「題目の巷」と称されました。題目とは「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)の七文字のことです。

 帰依者の中には公家・武家もいましたが,中心は町衆で,特に土倉(どそう)や酒屋などが信者の中核となりました。

 室町後期頃,法華宗は,信者以外からは施しを受けず,また施しを与えないという不受不施(ふじゅふせ)の法理に従い,戦闘的な立場をとるようになりました。そのため,特に山門(さんもん,比叡山延暦寺)からたびたび攻撃を受け,進んで武装するようになりました。

 法華宗の武装は,町の自治と自衛のために団結する町衆や,松ヶ崎(まつがさき)など近郊の法華信者の農民と結びつき,門徒集団として武器を携え身命を賭して戦う「法華一揆」(ほっけいっき)へと発展していきました。武装した門徒は,旗指物をかかげ,題目を唱えながら京内を巡回する「打ちまわり」を行いました。

 応仁・文明の乱後,洛中に乱入する土一揆や諸大名間の戦闘に対して,町衆は武力をたくわえ町を防衛しました。法華一揆は,時には武家の軍勢とともに参戦し,一方で,年貢の減免要求を掲げて抵抗を示しました。

天文法華の乱って何?

 天文法華の乱は,天文5(1536)年,山門および南近江の守護六角(ろっかく)氏等が,京都の法華宗二十一本山を焼き討ちした戦闘のことです。

 この時期,将軍不在の京都は管領細川晴元(ほそかわはるもと)の支配下にありました。天文元年,晴元と対立した一向一揆が入洛する噂が広がると,法華一揆と晴元が同盟してこれを防ぎ,翌年,山科本願寺を焼き討ちしました。これが,大規模な法華一揆のはじまりです。

 天文5年2月,比叡山延暦寺西塔の華王房が法華門徒の松本久吉と宗論して破れました(松本問答)。これに端を発し,長年対立してきた山門と法華宗との戦闘に発展しました。これが天文法華の乱です。

 山門勢は,六角氏や畿内近国の大寺院を味方につけ,7月22日早朝,松ヶ崎城を襲撃。続いて六角定頼(ろっかくさだより)以下近江の軍勢が三条口・四条口を攻撃して洛中に乱入。法華宗徒の町衆は総力を挙げて戦いましたが,法華寺院と町衆が集住する下京は焼失し,上京も3分の1ほどが焼け,兵火による被害規模は応仁・文明の乱を上回るものでした。この乱をもって,法華一揆は終息しました。

 乱後,山門や幕府から強い弾圧を受けた二十一本山は堺の末寺に逃れました。しかし,京都に帰還する請願が続けられた結果,天文11(1542)年勅許が下り,十五本山が京都に戻りました。

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移転する法華寺院

 法華宗は他宗派からの迫害や諸事情により,多くの寺院が移転を繰り返しました。門徒に下京の町衆が多かったので,多くの寺院は下京内を中心に移動しました。また,町衆の自治・防衛と強く関わり,寺院の多くは堀や土塁などの防衛施設を設け,武力を備えていました。

 洛中二十一本山は,天文法華の乱で焼き討ちされ,堺に逃れました。のち洛中に再興された寺院は,妙顕寺(みょうけんじ),要法寺(ようほうじ),本圀寺(ほんこくじ),妙覚寺(みょうかくじ),妙満寺(みょうまんじ),本禅寺(ほんぜんじ),本満寺(ほんまんじ),立本寺(りゅうほんじ),妙蓮寺(みょうれんじ),本能寺(ほんのうじ),本法寺(ほんぽうじ),頂妙寺(ちょうみょうじ),妙泉寺(みょうせんじ),本隆寺(ほんりゅうじ),妙伝寺(みょうでんじ)の15か寺に減少。さらに,天正7(1579)年の浄土宗との宗論(安土宗論)で織田信長によって弾圧をうけました。その後,豊臣秀吉による京都の都市改造の一環として,法華寺院の大半は寺町(てらまち)または寺之内(てらのうち)に集められました。

妙顕寺(みょうけんじ) 上京区寺之内通新町西入
妙顕寺

 洛中二十一本山の一。法華宗(日蓮宗)四大本山の一。開基は京都に法華宗をもたらした日像(にちぞう)。

 元亨元(1321)年,御溝今小路(現大宮上長者町)に寺地を賜り,勅願寺となりました。暦応4(1341)年,四条櫛笥(くしげ)に移転。この門流を四条門流といいます。

 将軍家祈祷所となり,町衆からも帰依を受けましたが,山門から反発を買い,山門衆徒にたびたび破壊されました。そのつど天皇や将軍から寺地を賜り再興し,妙本寺と改号。天文法華の乱で灰燼に帰し,のち二条西洞院に再興しましたが,天正12(1584)年,秀吉の妙顕寺城(みょうけんじじょう)建立に伴い現在地に移転させられました。

妙覚寺(みょうかくじ) 上京区新町通鞍馬口下る

 洛中二十一本山の一。四条門流。永和4(1378)年,日実が妙顕寺より分派して四条大宮に建立。

 文明15(1483)年には室町将軍足利義尚(あしかがよしひさ)の命で二条衣棚(にじょうころものたな)に移転。天文法華の乱で焼失し,のち旧地に再建。天正10(1582)年本能寺の変の際,織田信長の息子信忠の宿だったので,明智軍に攻められ焼失。天正19(1591)年,豊臣秀吉の命で現在地に移転しました。境内に檀家の絵師狩野家一族の墓があります。

妙蓮寺(みょうれんじ) 上京区寺之内通大宮東入
妙蓮寺

 洛中二十一カ本山の一。四条門流。開基は京都に法華宗をもたらした日像。

  永仁3(1295)年,五条西洞院に卯木山妙法蓮華寺を建立。応永年中(1394〜1428)に四条大宮あたりに再建し,妙蓮寺と号しました。天文法華の乱で焼失。のち,大宮元誓願寺に再興。天正15(1587)年,秀吉の命で現在地に移転しました。

本能寺(ほんのうじ) 中京区寺町通御池下る

 洛中二十一本山の一。本門法華宗の寺。応永22(1415)年,妙顕寺の月明(げつめい)と対立した日隆(にちりゅう)によって高辻油小路に創建されました。当初は本応寺と称しています。

 宗派内部の対立により破壊されたのち,蛸薬師大宮に再建。天文法華の乱で,同寺は約2万の兵で四条口を守ったが破れ,寺は焼失しました。帰洛後,油小路蛸薬師に移転しましたが,天正10(1582)年本能寺の変で再び焼失。天正15年秀吉の命により現在地に移転しました。

 本能寺の変当時の寺地には跡地を示す「此附近本能寺址」の石標が立っています。

本圀寺(ほんこくじ) 山科区御陵大岩

 洛中二十一本山の一。六条門流。建長5(1253)年日蓮が開いた鎌倉松葉ヶ谷道場法華堂が前身。のち本国寺と号しました。

 貞和元(1345)年,堀川六条西の地に移転。この門流を六条門流といいます。天文法華の乱で焼失後,旧地に復しましたが,天明8(1788)年の天明の大火で堂舎の大半を焼失しました。昭和46(1971)年,現在地に移転しました。なお,寺号を「圀」の字に改めたのは,江戸時代初期,徳川光圀の庇護を得たことによると伝えられています。

妙満寺(みょうまんじ) 左京区岩倉幡枝町

 洛中二十一本山の一。顕本法華宗の総本山。康応元(1389)年,日什(にちじゅう)が六条坊門室町に開創。

 のち四条東洞院に移転。天文法華の乱で焼失後,旧地で再建。安土宗論で弾圧を受けました。天正11(1583)年,秀吉の命で寺町二条へ移りました。昭和43(1968)年,現在地に移転。

 なお,寺町二条の妙満寺境内には京の名水の一つ「中川の井」があり石標が建てられましたが,寺の移転に伴い石標も現在地に移されました。

本法寺(ほんぽうじ) 上京区小川通寺之内上る

 洛中二十一本山の一。開基は中山門流の日親(にっしん)。永享年間(1429〜41)頃,四条高倉に建てられた弘道所にはじまります。

 『立正治国論』(りっしょうちこくろん)を著した日親は,永享12(1440)年,室町幕府将軍足利義教によって投獄されましたが,のち三条万里小路に寺を再建。天文法華の乱で焼失後,一条戻橋(いちじょうもどりばし)の地に再興しました。天正18(1590)年,豊臣秀吉の命により現在地に移転。なお,境内に檀家本阿弥(ほんあみ)家一族の墓があります。

涌泉寺(ゆうせんじ) 左京区松ヶ崎堀町

涌泉寺
 松ヶ崎は,比叡山の西麓に位置する天台宗派の強い地で,叡山三千坊の一つ観喜寺がありました。鎌倉末期,日像(にちぞう)によって法華宗が京都に伝えられると,徳治2(1307)年同寺の僧実眼(じつがん)は法華宗に帰依。寺を改宗して寺号を妙泉寺に改称しました。この時,松ヶ崎村の全住人も改宗し,洛外における法華宗拠点の一つとなりました。日本最古の盆踊り「松ヶ崎題目踊り」は,実眼がはじめたと伝えられています。

 天文法華の乱では,山門宗徒からまっさきに攻撃を受け,松ヶ崎城が落城,寺も焼失しました。

 天正3(1575)年に再興。大正7(1918)年,松ヶ崎小学校の敷地拡張に伴い,現在地にあった本涌寺と合併し,両者の名をとり涌泉寺と改称しました。本涌寺は天正2(1574)年日生(にっしょう)によって創建された法華宗の僧侶養成のための学問所で,松ヶ崎檀林(だんりん)とも呼ばれました。

 なお松ヶ崎では,8月16日夜に行われる五山の送り火の一つ「妙法」(みょうほう)が点火されます。妙の字は,村民が改宗した時,日像が杖で「妙」の字を書いて点火し,法の字は,妙泉寺の末寺下鴨大妙寺の日良(にちりょう)が書いたことにはじまると伝えられています。寛文2(1662)年刊行の名所案内記『案内者』(あんないしゃ)には,送り火「妙法」の記述が見られることから,少なくとも江戸時代初期にははじめられていたことがわかります。


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