『方丈記』にみる三つの災害
都市史10

『ほうじょうき』にみるみっつのさいがい
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鴨長明(かものちょうめい)がみた地獄絵

 『方丈記』の筆者鴨長明(1155〜1216)が生きた平安時代末期には,平安時代を通して最大級の火災といわれる二つの大火が起こりました。人々はこの火災を「太郎焼亡」(たろうしょうぼう)「次郎焼亡」(じろうしょうぼう)と呼びました。さらに数年後,辻風(つじかぜ,つむじ風)・地震・飢饉(ききん)・日照り・洪水が相ついで京都を襲い,多くの死者を出しました。特に深刻な被害をもたらしたのは,養和年間(1181〜82)の飢饉です。ここに取り上げるのは,太郎焼亡・次郎焼亡・養和(ようわ)の大飢饉の三つの災害です。

 平安後期は釈迦入滅後,仏教がおとろえる末法の世に入ったと信じられた時代。まさに地獄絵さながらの情景が京中で見られました。

太郎焼亡・次郎焼亡

 太郎焼亡とは,治承元(1177)年4月28日の夜半,樋口富小路(ひのくちとみのこうじ,現万寿寺通<まんじゅじどおり>富小路<とみこうじ>附近)から出火,南東の風にあおられて,西北方面に扇状に延焼した大火です。焼失範囲は,東は富小路,西は朱雀大路(すざくおおじ,千本通<せんぼんどおり>),南は六条大路,北は大内裏までの約180余町(180万平方メートル)。大極殿(だいごくでん)を含む八省院全部と朱雀門(すざくもん)・応天門(おうてんもん)・神祇官(じんぎかん)など大内裏南東部,大学寮(だいがくりょう)・勧学院(かんがくいん),関白藤原基房ら公卿の邸宅14家などを焼失。焼死者は数千人に及んだといいます。この火災は安元の大火とも呼ばれます。実際に出火したのが安元3年で,その年に治承に改元したからです。

 次郎焼亡は,太郎焼亡の翌年治承2年4月24日起こった火災。七条東洞院(しちじょうひがしのとういん)あたりから出火して,七条大路(しちじょうおおじ)沿いに朱雀大路まで延焼しました。二つの火災は人々に大きな不安を与え,末法の世の到来を印象づけました。

地図上をクリックすれば拡大図が表れます↓
 現在の地図に示した太郎焼亡と次郎焼亡の焼失範囲。上が太郎焼亡で下が次郎焼亡。×印はそれぞれの出火地点。この表示は焼けた範囲をおおまかに示すものである。太郎焼亡焼失範囲の左上隅あたりが大極殿。
 *国土地理院発行数値地図25000(地図画像)を複製承認(平14総複第494号)に基づき転載。
養和(ようわ)の大飢饉(だいききん)

 養和元(1181)年から翌年にかけて,天災が続きました。春と夏に日照りが続き,秋には大風・洪水にみまわれ,収穫がほとんどありませんでした。これを養和の大飢饉と呼びます。

 平安京では,餓死した人々の多くは路上に放棄されていました。長明は当時の様子を次のように記しています。

築地のつら,道のほとりに,飢ゑ死ぬるもののたぐひ,数も知らず。取り捨つるわざも知らねば,くさき香世界に満ち満ちて,変わりゆくかたち有様,目もあてられぬ事多かり。

 こうしたなか,仁和寺の僧隆暁(りゅうぎょう)は,路上に横たわる死者を供養しました。その数は,わずか2か月間に平安京内だけで4万2300余に上ったと伝えられます。

 被害が深刻だったため,兵糧米の調達が困難になり,源平の戦いも膠着状態におちいるほどでした。

「六道絵」(ろくどうえ)の世界

 鴨長明がみた平安京の地獄絵の情景と,その時代に生きた人々の不安は,「六道絵」と呼ばれる地獄道を主題として描かれた地獄変相図から垣間見ることができます。

 六道絵の制作は,平安末期殊に流行しました。この時期の著名な作品として『地獄草紙』(じごくぞうし)『餓鬼草紙』(がきぞうし)『病草紙』(やまいのそうし)などがあげられます。

 これらの絵巻は,後白河法皇(1127〜92)の院御所法住寺殿(ほうじゅういどの)に付属する蓮華王院(れんげおういん)宝蔵(ほうぞう)に納められていた六道絵巻の一部だったと考えられています。のち,各地に散逸しましたが,現在東京国立博物館・京都国立博物館などに所蔵されています。

 

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河合神(かわいじんじゃ)社 左京区下鴨泉川町

 糺(ただす)の森にある賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ,下鴨神社)の摂社。祭神は賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)の母,玉依日売命(たまよりひめのみこと)。正式には小社宅神社(おこそべじんじゃ)といいますが,高野川と賀茂川の合流する地点にあることから河合神社と呼ばれています。小社宅とは社戸(こそべ)の意味で,賀茂社社家の屋敷神を示すといわれています。

 当初,秦氏の奉祀する神でしたが,鴨氏が秦氏の聟(むこ)となり,神官として代々祭礼に携わるようになったと伝えられています。

 鴨長明(かものちょうめい)は河合社の社家に生まれ,父長継は神官でした。若くして父を亡くした長明は,後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)から神官に推されましたが,一族の反対にあい実現しませんでした。このことが,長明遁世の一因になったといわれています。

 なお境内には『方丈記』に基づいて復元された長明の方丈庵の実物大模型が置かれています。

方丈の庵(ほうじょうのいおり)跡 伏見区日野船尾
方丈の庵跡

 伏見区日野の法界寺(ほうかいじ)から東へ約3キロメートルの炭山(すみやま)の渓流沿いに巨石があり,その上に「長明方丈石」(ちょうめいほうじょうせき)と記した石碑が建てられています。これは,鴨長明がこの地に庵を結んで『方丈記』を記したという伝承に基づいて建てられたものです。

 『方丈記』によると,庵は「日野山の奥」にあり,「広さわずかに方丈(3メートル四方)」の簡素なものでした。この庵で書かれたので『方丈記』なのです。


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