羅城門
都市史05

らじょうもん
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羅城門とは?

 羅城(らじょう)とは,古代都市を取り囲む城壁のことで,羅城門は羅城に開かれた門です。中国では外敵防禦のため堅固な羅城が築かれましたが,日本では藤原京以来,京城の南面の羅城門の両翼のみに造られただけで,周囲には簡単な垣(土塁)と溝が設けられていたようです。

 平安京の羅城門は,朱雀大路(すざくおおじ)の南端に建てられた都の正門です。読み方は,呉音で「らじょうもん」,漢音では「らせいもん」となります。「らいせい門」(『宇治大納言物語』『世継物語』) や「らせい門」(『拾芥抄』)とも呼ばれ,「らいしょう(頼庄)」(『延喜式』)や「らしょう」(『拾芥抄』)は俗称とされていましたが,中世には観世信光(かんぜのぶみつ)作の謡曲「羅生門」の影響からか「らしょうもん」が一般化したようです。

 なお羅城門跡は江戸時代には,唐橋村(からはしむら)字来生(あざらいせい,現南区唐橋羅城門町)といいました。来生は「らいせい」のあて字です。

羅城門の形状と規模
ぱるるプラザに展示された1/10模型(現在非公開)

 門は重層で入母屋造(いりもやづくり),瓦屋根に鴟尾(しび)がのっていました。規模は,幅十丈六尺(約35メートル),奥行二丈六尺(約9メートル),高さ約七十尺(約21メートル)。正面柱間が七間で,そのうち中央五間に扉が入り(七間五戸),左右の一間は壁であったと考えられています。木部は朱塗りで,壁は白土塗り。内と外は,幅が七丈(約24メートル)五段の石段で通じていました。

 朱雀大路の南端に建つ羅城門と,約4キロメートル北に建つ朱雀門は同じ形と大きさであったとみられています。他の門が,五間三戸だったことを考えるとその大きさがわかります。

羅城門の変遷

 羅城門は高さと幅に対して奥行が短いことから風に弱かったらしく,弘仁7(816)年8月16日,大風により倒壊しました。その後再建されましたが,天元3(980)年7月9日の暴風雨でふたたび倒壊しました。

 寛弘元(1004)年,丹波守高階業遠(たかしなのなりとお)が羅城門を造ることを条件に任期の延長を申し出て認められましたが,翌年に,はばかるところがあるとの理由で辞退しています。従って,天元3(980)年以降再建されることはありませんでした。

 治安3(1023)年には,藤原道長が法成寺(ほうじょうじ)造営に際して,羅城門などの石を運ばせました。その頃の羅城門は,礎石がかろうじて残っている程度に荒廃していたと考えられます。

 羅城門は外国からの使節を迎え入れる時,平安京の威容を見せるために造られたみやこの表玄関でした。渤海(ぼっかい)や新羅(しらぎ)からの使節がとだえるにともない羅城門の役割がなくなり,再建される必要がなかったのでしょう。

羅城門に関する逸話

 宇多天皇の『寛平御遺誡』(かんぴょうのごゆいかい)や『宇治大納言物語』(うじだいなごんものがたり)『世継物語』(よつぎものがたり)には,羅城門創建時の話が伝えられています。

 巡行中の桓武天皇(かんむてんのう)が,工匠(たくみ)に羅城門の高さを五寸減ずべきことを命じ,再度の巡行で工匠に聞いたところ,すでに減じたと答えました。それを聞いた天皇が後悔しているのを見た工匠は失神しました。そこで理由を問いただすと,実は天皇の命に従っていなかったと告白したため,天皇はその罪を許したというものです。

 工匠の腕と天皇の目の確かさを示す逸話として伝えられたものですが,危惧するほどに羅城門が高かったことから生まれた話と考えられます。

 また,羅城門には鬼が住むといわれ,大江山の酒顛童子(しゅてんどうじ)を退治したことで知られる源頼光(みなもとのよりみつ)の四天王のひとり渡辺綱(わたなべつな)が羅城門の下を通ったとき,楼門の上から大きな鬼の手がのびてきたので,綱はその手をつかんで切り落としたといいます。

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羅城門遺址(らじょうもんいし) 南区唐橋羅城門町(花園児童公園内)

羅城門遺址
 明治28(1895)年,平安遷都千百年紀念祭の事業の一つとして,湯本文彦(ゆもとふみひこ)の提案による平安京実測事業がなされ,羅城門の位置を決め,京都市参事会によって「羅城門遺址」の石碑がその地に建てられました。

 決定の方法は,延暦15(796)年の創建以来,位置が不動とされた東寺の南門を基準点として,そこから曲尺(かねじゃく)で計測して,九条通の南端の位置を決定し,さらに計測して朱雀大路の中心,すなわち羅城門の中心を決めました。

 なお考古学的には羅城門の遺構はまだ発見されていません。

羅城門復元模型

 平安建都千二百年を記念して,附属施設も入れて全体の大きさが幅8メートル,奥行3.6メートル,高さ2.4メートルの10分の1大型模型が,平成6(1994)年に京都府建築工業協同組合の手で製作されました。当初は京都駅前のぱるるプラザ(現メルパルク)地階に展示されましたが,現在は公開されていません。

 また30分の1模型が,京都府京都文化博物館(中京区三条通高倉)に展示されています。

兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりつぞう)

 現在は東寺(南区九条町)の所蔵ですが,もとは羅城門の楼上に安置されていたものといわれます。唐の時代に作られた名作で,高さ六尺四寸(約190センチメートル)の威風堂々たる体躯,頭上には宝冠と輪宝をいただき,足下には小鬼を踏みつけ,いかにも異国的(兜跋は吐蕃・チベット)な風貌を漂わせています。国宝。

小説と映画の「羅生門」

 芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の小説「羅生門」は,『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)巻二十九の「羅城門上層ニ登リテ死人ヲ見シ盗人ノ語」を素材にして,羅城門の楼閣上に盗賊が住んでいたさまを描いています。

 芥川龍之介の小説『藪の中』を素材として黒澤明(くろさわあきら)は映画「羅生門」(1950)を製作し,1951年度のイタリア,ベニス国際映画祭で最高の栄誉であるグランプリとアメリカのアカデミー外国映画賞を獲得しました。

 映画「羅生門」のオープンセットは,大映京都撮影所の広場に建設され,間口十八間(約33メートル),奥行十二間(約22メートル),高さ十一間(約20メートル),柱には周囲四尺(約1.2メートル)の巨材18本を使用して造られました。正面に掲げられた扁額は,縦五尺(約1.5メートル)横九尺(約2.7メートル)あり,崩れかけた屋根の瓦は,4000枚を焼いて,延暦17年(798)という年号を彫り付けました。

 羅城門遺址附近図。画面中央よりやや右寄りに郵便局のマークが見える。国道171号をはさんですぐ北が遺址。右端に東寺の境内,左に西寺跡が見え,羅城門はふたつの大寺院の中間にあった。
 *国土地理院発行数値地図25000(地図画像)を複製承認(平14総複第494号)に基づき転載。

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