秦氏
都市史01

はたし
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どんな人たち?

 古代に朝鮮半島から渡来した氏族。『日本書紀』応神天皇条に,秦始皇帝(しんのしこうてい)子孫という伝承をもつ弓月君(ゆづきのきみ)が多数の民を率いて渡来したのに始まるとしますが,「はた」は古代朝鮮語で海の意であり,実際は5世紀中頃に新羅から渡来した氏族集団と考えられます。山城国葛野郡(かどのぐん)太秦(うずまさ)あたりを本拠とし,近畿一帯に強い地盤を築きました。

 秦氏にはいろいろな伝承があり,代表的なものは,雄略天皇の頃,族長の秦酒公(はたのさけきみ)が全国に分散していた180種の勝(すぐり,部)を集め,調・庸の絹をうずたかく盛り朝廷に献上して禹豆麻佐(うずまさ)の姓を与えられ(『日本書紀』),太秦の地名もこれに由来するというものです。

その業績は?

 秦氏は,高度な技術力と豊富な経済力をもっていたため,桂川に灌漑用の大堰を作って嵯峨野(さがの)一帯を開墾し,養蚕や機織などの新しい技法を伝えました。

 7世紀始めに財力を蓄えた秦河勝(はたのかわかつ)は,聖徳太子から仏像を賜って,太秦に蜂岡寺(はちおかでら,現広隆寺)を建立しました。このような技術力や経済力をもった秦氏の中には,奈良時代に官僚になったり,中央貴族と姻戚関係を結んだりするものもいました。

 桓武天皇は,延暦3(784)年,仏教色に染まりすぎた平城京を離れて新しい地を求めて,山背国(やましろのくに)乙訓郡(おとくにぐん)長岡に遷都を行いました。秦氏は,造宮長官藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の母が秦氏の娘であったため,造都に全面的な協力をしたといわれています。

 長岡京は10年で廃され,同じ山背に平安京が造られますが,そこでも新都建設に秦氏が尽力し,秦氏の本拠地であった桂川一帯は,建設に必要とする材木の陸揚げ基地となりました。

 長岡京は,都としてどこまで整備されていたか疑問視されていましたが,近年の発掘調査で都城形体がかなり整っていたことがわかっています。再度平安京へ遷都するのにはかなりの困難が伴ったはずです。それをやり遂げた桓武天皇の背後には,山背地域を本拠として高度な技術力と財力をもっていた秦氏がいたからできたことだといわれています。

 内裏の紫宸殿(ししんでん)前の「右近の橘」(うこんのたちばな)は,秦河勝の邸宅にあったという伝承があります。これは,早くから山城盆地に住んでいた秦氏が,内裏にあてられるようないい土地を所有していたということを示す伝承です。

 平安京遷都後の秦氏は,官僚として活躍し,主計寮・大蔵省・内蔵寮の役人として名が残っています。元慶7(883)年,秦氏は惟宗朝臣(これむねのあそん)に改姓し,明法家を輩出します。各地方には秦姓も多く,在庁官人や郡司として名を残しています。

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広隆寺(こうりゅうじ) 右京区太秦蜂岡町
広隆寺

 真言宗別格本山。別称太秦寺・蜂岡寺。『広隆寺由来記』には,広隆は秦河勝の実名とされますが,寺名の成立時期は不詳。秦河勝が,推古11(603)年聖徳太子から仏像を拝受し蜂岡寺を造営し,推古31(623)年に新羅から送られた仏像を葛野秦寺に安置したと記されます。

 広隆寺という寺名が文献に現れるのは,承和5(838)年ですが,飛鳥時代にさかのぼる仏像が伝わることや,出土瓦からその起源が飛鳥時代にあることをうかがわせます。太秦の地は,秦氏が葛野郡に拠点を築いた五世紀以降特別な地として重要視されたものと思われます。度々火災にあい,現在の建物は平安時代末期以後のものです。戦後に国宝第一号に指定された木造弥勒半跏思惟像は飛鳥時代のもので特に有名です。

大酒神社(おおさけじんじゃ)  右京区太秦東蜂岡町

 本殿に秦始皇帝・弓月君・秦酒公,別殿に呉織神(くれはとりのかみ)・漢織神(かんはとりのかみ)を祀ります。広隆寺の鎮守神。

 仲哀天皇の頃,秦始皇帝の子孫功満王(秦氏の祖)が来朝し,大酒明神を祀ったのに始まるといい,その後秦氏が農耕殖産の神・悪疫悪霊を避ける神として氏神としたと考えられます。『延喜式』には大辟神社(おおさけじんじゃ)とみえ,大酒神は大辟や大避と書かれ,「酒」は「避」(さけ)で道の神であったといわれます。

 もとは広隆寺の一隅の桂宮院(けいきゅういん)境内に祀られ,秦氏の氏神社になっていましたが,明治の神仏分離令で現在地に移されました。

太秦の牛祭り

 10月10日夜に行われる広隆寺の祭礼で京都三奇祭の一つ。またかつて広隆寺境内にあった大酒神社の祭りともいいます。

 寺伝によれば,恵心僧都源信(えしんそうずげんしん,942〜1017)が極楽浄土を求めて念仏会を始め,天台系の常行堂守護神として祀られる異形の神である摩多羅(またら)神を守護神としました。国家安穏・五穀豊穣・悪疫退散を祈る農民の素朴な祭りと合わさって伝えられたものと考えられています。

 三角鼻の紙面をつけ牛に乗った白衣の摩多羅神と,紙の面をつけた赤鬼・青鬼の四天王が,境内や周辺を一巡し,薬師堂に来ると牛を降り,祭文を読みます。終ると神と鬼は薬師堂に駆け込み,観衆は厄除けになる祭文や面を奪おうとしてもみ合いになります。

 かつては夜2時に行われ,仮面・装束・行動ともにより奇怪であったといい,絵巻や図絵などに残っています。

蚕の社(かいこのやしろ)  右京区太秦森ヶ東町

 正しくは,木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)。祭神は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・瓊々杵命(ににぎのみこと)・大国魂神(おおくにたまのかみ)・穂々出見命(ほほでみのみこと)・鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)。

 秦氏ゆかりの神社で,『続日本紀』大宝元(701)年にその名が見え,『延喜式』にも名神大社と記されます。平安時代には祈雨の神として信仰されました。本殿右にある養蚕神社(こかいじんじゃ)は,養蚕・機織・染色技術に優れた秦氏にちなんで蚕の社と呼ばれることから,これが通称となりました。

 境内には,元糺(もとただす)の池があり,賀茂明神はこの地より下鴨糺森に移ったといい,糺森の名はこの池に発祥すると伝えられます。池の中に,明神鳥居を正三角形に組合せた三鳥居(みつとりい)があります。京都市指定史跡。

松尾大社 西京区嵐山宮町

 祭神は,大山咋神(おおやまぐいのかみ)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。『延喜式』で名神大社に列しています。大宝元(701)年秦都理(はたのとり)が神殿を建立し,その一族が長く社家を務めました。天平2(730)年には大社の称号を得ました。平安時代は,王城鎮護の社として,東の賀茂,西の松尾と並び称されました。中世以降は造酒神として崇敬されました。

 社殿背後の亀の井の水は,酒が腐敗しないといわれ,醸造家が汲んで酒水に混ぜる風習があり,今も境内には奉納された多くの酒樽が並んでいます。

伏見稲荷大社 伏見区深草藪ノ内町

 現在は商売繁盛の神であり,全国3万余りを数える稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社は,もとは稲成(いねなり)つまり穀霊を祀るものでした。『山城国風土記』の逸文に由来がみえ,秦中家忌寸(はたのなかつえのいみき)らの遠祖秦公伊侶具(はたのきみいろぐ)が稲を積んで富み栄え,餅を用いて的にしたところ白鳥となって飛び去り,山の峰に至りました。そこに「伊禰奈利(いねなり)生え」,ついに社としたということです。

 伊奈利社の祭祀が秦氏によってなされ,その子孫が歴代稲荷社の祠官となりました。天長4(827)年東寺の鎮守となり,中世には民間の稲荷信仰として広がりました。社殿は,永享10(1438)年,山上より麓の現在地に移されました。

葛野大堰(かどのおおい) 西京区嵐山渡月橋附近

 葛野大堰は,5世紀頃に秦氏が造ったとされる,川からの取水のための井関です。これにより一帯は農耕が可能な土地になりました。正確な位置は不明ですが,葛野川(桂川)の渡月橋(とげつきょう)附近と推定されています。現在のこの附近を大堰川(大井川)と呼ぶのは葛野大堰が築かれていたからです。

 道昌(どうしょう,798〜875)は讃岐出身の僧侶。俗姓は秦氏。神護寺で空海の教えを受けました。その後,秦氏が創建した広隆寺に入り復興し,秦氏の建設した葛野大堰を修復しました。

蛇塚(へびづか) 右京区太秦面影町
蛇塚

 6世紀末ないし7世紀初頭の築造と推定される嵯峨野の首長墓群の中では最大規模の古墳。当地一帯を本拠とした秦氏一族の統率者を葬った墓と考えられています。もとは全長約75メートルの前方後円墳でしたが,現在は封土を失い,巨大な横穴式石室のみが住宅地の中に残っています。国指定史跡。

 太秦付近図。中央に広隆寺,右端に蚕の社,左橋に蛇塚古墳が記される。
 *国土地理院発行数値地図25000(地図画像)を複製承認(平14総複第494号)に基づき転載。

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