祇園祭 祭礼篇
文化史28

ぎおんまつり さいれいへん
印刷用PDFファイル
 
  【目次】
    知る

    歩く・見る
※画像をクリックすると大きい画像が表れます

   知る

どんな祭?

「洛中洛外図屏風」上杉本陶版(京都アスニー)
 祇園祭とは,八坂神社の祭礼であり,この祭礼に合わせて中京・下京区の山鉾町等では諸行事が行われます。葵祭・時代祭と合わせて京都三大祭と呼ばれ,また,大阪の天神祭・東京の神田祭と並んで日本三大祭の1つに数えられています。

 祭礼の期間は,ほぼ1カ月間で,7月1日の吉符入りから神事が始まります。その夜からお囃子(はやし)の練習が行われ,2日には,京都市議会の議場において,市長立ち会いのもと,山鉾巡行の順番を決める鬮取り(くじとり)式が行われます。7月10日には神輿洗(みこしあらい)が行われ,同日から鉾建てが始まります。鉾は数日かけて完成しますが,山は1日で組み上がるため,山建ては13日より行われます。

 16日の宵山,17日の山鉾巡行(四条烏丸―四条通―河原町通―御池通)は,全国的に有名で,たくさんの人で賑わい,新町御池で巡行が終わると,山鉾は各山鉾町に戻りすぐさま解体されます。その後,24日には花傘巡行,29日の神事済奉告祭で,祭礼は終わりをむかえるのです。

祇園御霊会

 祇園祭は,疫神怨霊を鎮める祭礼である御霊会(ごりょうえ)が起源で,もとは祇園御霊会・祇園会(ぎおんえ)と称し,貞観11(869)年,全国的に疫病が流行した時,その退散を祈願して長さ2丈程の矛(ほこ)を,日本66カ国の数にちなみ66本を立て,牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのが始まりといいます。

 天禄元(970)年以後,祇園御霊会は,毎年の行事となり,6月7日に神輿を迎えて種々の神事を行った後,14日にこれを送るのを定例とし,その神事には朝廷や院から馬長(うまおさ)や田楽・獅子などが上納され,見物者の目を楽しませました。

 また,庶民からも色々な芸能の奉納があり,長保元(999)年,雑芸者無骨(むこつ)が大嘗祭(だいじょうさい)の標山(しめやま)に似た作山を作って行列に加ったのが,現在の山鉾巡行の原初とされています。

山鉾の時代

 平安末期には祭礼が一段と賑やかになり,鎌倉時代になると,鉾や長刀に装飾を付けたものが行列に加わりました。現在,粟田神社(東山区)の大祭などで見られる剣鉾巡行に当時の様子をうかがうことができます。

 三条公忠の日記『後愚昧記』(ごぐまいき)に記された永和2(1376)年の祇園会では,神事を勤めなかったにもかかわらず,鉾は例年通り巡行が行われており,これは,祭礼への関心が,神輿渡御などの神事から山鉾巡行に移ってきたことを意味しています。また,当時の山鉾は,すでに一人で担ぐ剣鉾のような小型のものではなく,かなり大型化していたものと思われ,「高大鉾」が倒れ,老尼が圧死する事件も起きています。

 一条兼良(いちじょうかねよし)の『尺素往来』(せきそおうらい)には,定鉾以外に鵲鉾(かささぎほこ)・跳鉾(おどりほこ)・白河鉾の名が見られ,合わせて笠車,風流の造山,八撥の曲舞が奉納されたとあります。この後も,山鉾の数は年ごとに増え,15世紀中頃には58基に達しましたが,応仁・文明の乱(1467〜77)で巡行は中絶します。

町衆と山鉾

 乱後33年を経た明応9(1500)年,山鉾は再興され,『祇園社記』には,6月7日に26基,14日に10基が巡行したとの記載があります。

 祭礼は,安土桃山期から江戸初期にかけてより盛大となり,その様子は「祇園祭礼図屏風」や「洛中洛外図屏風」などで見ることができます。また,この時期,京都の町組の整備によって,祇園社氏子区域の中に,山鉾町とその寄町(地ノ口米を負担してその経費の一部を助ける組織)が定まりました。

 江戸時代には,祇園の芸妓による風流行列などの練り物が年々華やかさをきわめ,宝永・天明・元治の大火による被害もありましたが,ほとんどの山鉾はそのつど復興しました。

 明治維新後,太陽暦の採用に伴い,明治10(1877)年には,巡行日が7月17日(前祭)と24日(後祭)に改められました。

明治以後の変遷

 明治5(1872)年の寄町制度の廃止にともない,財政面において,山鉾の維持と存続が危ぶまれるようになりました。そのため,明治8年,山鉾巡行や神輿渡御の経費を援助する協賛組織として清々講社が結成され,各山鉾町でも,大正12(1923)年,現在の山鉾連合会の前身である山鉾町連合会を組織し,以後,これらの組織に支えられ昭和17(1942)年まで,山鉾の維持と巡行が行われてきました。

 昭和18年,戦争により山鉾巡行は中止となりますが,同22年には長刀鉾と月鉾が建てられ,長刀鉾のみが巡行を行いました。29基(綾傘鉾,蟷螂山,四条傘鉾以外)の山鉾が復活し,巡行に姿を見せたのは同27年のことです。

 昭和31年には松原通から御池通へ,同36年には寺町通から河原町通へ巡行コースを変更,同41年からは先祭と後祭の合同巡行(17日)となり,後祭に代わる行事として,花傘巡行(24日)が行われようになりました。

山鉾巡行コースの変遷

○前祭(17日)
   昭和30年までの巡行路(戦後は昭和26年から)
   昭和31年から同35年までの巡行
   昭和36年からの巡行路

○後祭(24日)
   昭和40年までの巡行路
  (昭和25年から同40年までは四条新町が解散地点)

○昭和41年からは前祭(17日)と合同巡行

祭礼時以外に行われた山鉾巡行

 祇園祭は暑いさなかに行われるため,明治時代にはよく流行病によって巡行の延期が度々ありました。

 明治12(1879)年の巡行は,町中にコレラが流行したため11月7日(前祭)と13日(後祭)に延期しています。

 この年たまたまドイツ皇帝ウィルヘルムT世の孫にあたるハインリッヒ王子が来京していたため,同月15日には全山鉾が京都御苑内に参入し,翌日,建礼門前に整列するという史上まれに見る出来事がありました。

 また,明治23(1890)年4月8日の疏水竣工式の祝宴には,会場に月鉾・鶏鉾・郭巨山・油天神山が建てられ,祇園囃子が演奏されました。

上へ


   歩く・見る

八坂神社 東山区祇園町

 八坂神社の創建は,一説によると,高麗よりの調進使伊利之(いりし)が八坂郷に牛頭天王(ごずてんのう)の神祠を建てたことに始まるとされ,その頃は,祇園社あるいは祇園感神院(かんしんいん)と呼ばれていました。

 八坂神社の社名は慶応4(1868)年3月の神仏分離令により,「感神院祇園社」を「八坂神社」としたことによります。この時,祭神名も仏教的な牛頭天王・婆利采女(はりさいにょ)・八王子から神道の素戔嗚尊(すさのおのみこと)・櫛稲田姫(くしなだひめ)・八柱御子命(やはしらのみこのみこと)に改められました。

吉符入り

 吉符入りとは,神事始めの意で,各山鉾町(船鉾町は3日・長刀鉾町は5日)では,それぞれの町会所に八坂大神の神位を勧請し,その年の祭の行司以下役員の選定を行うほか,山鉾の組み立てや曳行に当たる大工手伝い並びに車方の人びとと契約書の調印を行います。

 この日,山鉾各町からの招きを受けた八坂神社の神職が,その会所に出向き,お祓いを行います。行司その他所役の当番たちは会式終了後,うち揃って神社に参詣し,社前で拝礼を行い,御神酒を頂戴して,神事の無事を祈ります。

神輿洗(みこしあらい)
八坂神社 西楼門

 神輿洗は,7月10日と28日の夜に,神輿3基のうち主神を祀る中御座の神輿を四条大橋まで運び,鴨川で浄める行事です。

 八坂神社南楼門―四条通―四条大橋のコースで,神輿は橋上の中央北側に据えられます。早朝汲んだ鴨川の水の入った神水桶3個が運ばれ,祝詞が終ると,神職が大麻(おおぬさ)を桶につけて,1振り毎に神水を神輿に注ぎます。担ぎ手の若衆もこの水を身体に受けて身を浄め,再び神社に帰ります。

 なお,神輿出御を出迎えるために提灯行列が行われます。これはお迎え提灯と呼ばれ,行列は,お先太鼓を先頭に,提灯や祇園囃子,児武者,獅子舞,小町踊,子供鷺舞などが,八坂神社から市役所,四条御旅所を経て,神社に帰る行程を練り歩き,市役所と神社に踊りを奉納します。

四条御旅所(おたびしょ) 四条寺町南側
四条御旅所

 山鉾巡行に眼を奪われがちですが祭礼の本質は神幸祭(しんこうさい)と還幸祭(かんこうさい)にあり,17日の山鉾巡行と24日の花笠巡行は神幸祭と還幸祭の先触れとして行われるものです。

 神幸祭とは,普段八坂神社の本殿に祀られている神霊を3基の神輿に遷して御旅所に迎える神事のことで,17日の山鉾巡行終了後に行われます。

 八坂神社本殿に稚児などが昇殿して神事が行われ,その後,宮本講社の人々が神宝を預かり,御旅所に向かいます。神輿3基は15日から拝殿に安置され,神輿会のかき手が担いで,拝殿回し・さし回しの後,二輪の台車に載せられ,各々のコースを渡御して御旅所に進みます。神職による着輿祭があり,神輿は所定の位置に置かれます。

 現御旅所は四条通南側にあり,向かって右の西御殿に中御座(素戔嗚尊)と東御座(櫛稲田姫)。反対側の東御殿に西御座(八柱御子命)が並べられ,灯明・神饌が供えられます。神輿は,その後1週間御旅所に留まり,花笠巡行後に行われる還幸祭で本社に帰ります。

旧御旅所

 現御旅所は,天正19(1591)年,豊臣秀吉が移したもので,旧御旅所は冷泉東洞院の少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)と高辻烏丸の大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ,現下京区烏丸高辻上る大政所町)の2カ所にあって,祭礼時に神輿は両所に分駐しました。少将井御旅所は町名(中京区)のみを今に残しており,大政所御旅所は故地を示す小祠が建っています。

 円融天皇のころ,この地に住んでいた秦助正(すけまさ)が夢中に神託を受け,その邸内に御旅所を造ったのに始まると伝えられています。今でも神輿還御の時に,特に神輿を降ろし,神職がその前に玉串を奉納します。

宵山(よいやま)

 宵山は,17日の山鉾巡行の前夜である16日のことをいいますが,近年は人出の集中を分散させるため,14日(宵々々山)・15日(宵々山)も宵山と同じような催しが行われています。

 各山鉾町では,駒形提灯に灯がともり,鉾の上から祇園囃子が流れ,また,町会所には,山鉾の人形・織物・装飾金具などが美しく飾られ,最も祭らしい風情が感じられます。

 町会所以外の一般町家でも,この夜は表の格子をはずし,店から奥座敷までの間,障子襖類を取り払って,涼しげな御簾をかけます。床には,毛氈(もうせん)などを敷きつめた上に,秘蔵の屏風をひろげ,宵山見物の人びとの目を喜ばせています。

 会所や町家で見られる屏風には,円山派・四条派など名だたる京絵師たちの大作が多く,屏風祭とも呼ばれています。


上へ